ライフコラム

エコノ探偵団

今年は物価より賃金上がる?

2015/2/18 日本経済新聞 朝刊

「給料が少し上がったのに、生活は苦しいです」。探偵事務所を訪れた近所の会社員が頭を抱えた。「昨年は給料が増えても買い物する気になれませんでしたね。今年はどうかしら」と、興味を持った探偵、深津明日香は調査に出かけた。

■増税なし・原油安が追い風

折しも2015年の春季労使交渉のまっただ中。明日香は、まず製造業などの労働組合で構成する金属労協を訪ねた。事務局次長の井上昌弘さん(46)は「年齢ごとの賃金カーブを保った上で、毎月の賃金を6千円以上増やすことを要求します」。そこへ流通・外食産業などの労組でつくるUAゼンセン書記長の松浦昭彦さん(53)が現れ「賃金テーブルを20年ぶりに3%、最低でも2%以上引き上げるよう求めます」。

明日香は続いて日本経済団体連合会を訪ねた。上席主幹の新田秀司さん(44)は「デフレ脱却にむけ労使交渉では収益が拡大した企業中心に賃上げへの期待を感じます」。

「それじゃ賃金テーブルが上がりますか」と明日香が目を輝かせると、新田さんは「それは賃上げの選択肢の一つにすぎません」と手を振った。

「ほかにも方法が?」と明日香が聞くと、新田さんは「賃金テーブルを書き換えて賃金を上げるのはベースアップ(ベア)。ベアが無くても、勤続年数が伸びれば定期昇給によって給料が増えます」と説明。「収益好転分をボーナスで還元するのも、立派な賃上げですよ」と、強調した。

明日香は再び金属労協に向かった。井上さんは「収益をボーナスに反映すればいいという考えこそデフレ時代のものだ」と言う。外に出るとUAゼンセンの松浦さんが立っていて「物価が上がれば月給を増やし、従業員の生活を守るのが経営者の責任だ。消費者物価は14年度、前年度比3%近く上がりそうです」。

明日香が新田さんに電話すると「昨年は消費増税の影響が大きく、その影響を除いた物価を基に考えるべきです」と反論された。「所定内給与を100円上げるとボーナスなどに波及して総額人件費は166円も増え、収益が悪化しても下げるのが難しくなります」(新田さん)

そこへ、早稲田大教授の黒田祥子さんが現れた。「景気変動に合わせてボーナスで賃金を調整する方法は昔からとられていました。ただ1990年代後半からのデフレ下、毎月の所定内給与にも調整の波が及びました」

明日香は統計を調べた。毎月の所定内給与の上昇率は、90年代まで物価上昇率よりおおむね高かったが、2000年代は物価下落時を除けば物価に負ける時期が目立った。

今年はどうなるか知りたくなり、明日香は第一生命経済研究所主席エコノミストの新家義貴さん(39)を訪ねた。「春季交渉賃上げ率は昨年の2.19%より高く2.4%程度。ベアも昨年の0.4%を上回る0.6%にはなるとみています」(新家さん)

「でも、物価が給料より上がるのなら生活は楽にならないわ」と明日香がつぶやくと、新家さんはほほ笑んだ。「今年は消費増税がない上、原油価格が下落し、物価は昨年ほど上がりません。給料の伸びの方が高まりそうです」

新家さんは「今年の給料が物価より上がるか、つまり実質賃金が増えるかは、経済が良い循環に乗るかどうかの重要なカギです」。昨年は給料の額は増えたものの、消費増税や物価上昇で実質では目減りしたため、消費が大きく落ち込んだ。実質賃金が上がり、給料が増えることを人々が実感できれば買い物の量を増やすことができる。すると消費が企業収益を押し上げ、さらなる賃上げにつながる。

■稼ぐ力向上も欠かせない

明日香は大和総研に向かった。執行役員でチーフエコノミストの熊谷亮丸さん(49)は「同じ2%の賃上げでも、ボーナス増額では消費押し上げ効果は7千億円にとどまりますが、残業代を含む毎月の定期給与が増えれば5兆3千億円の効果です」と試算する。ボーナス増額は一時的かもしれない。毎月の給料が上がってこそ家電購入など生活水準の引き上げにつながり、経済全体が押し上げられる。

熊谷さんは「2000年代に実質賃金が減ったのは、企業が収益分配を怠ったからではありません」。規制緩和が進まず企業の国際競争力が落ち、収益を稼ぐ効率もあまり向上しなかったためだとみる。安定した賃上げには収益が今後も成長するという自信が必要。「カギは安倍政権が大胆な規制改革を進められるか。今年が正念場です」

「そう。企業が効率よく稼げるか、社員1人が1時間働いた際に生み出される収益で実質賃金が決まります」と、声をかけてきたのは慶応大教授の山本勲さん(44)だ。「効率が同じなら実質賃金を保つため、物価上昇分が賃上げの目安になります」

明日香のスマホにUAゼンセンの松浦さんからメールが来た。「人手不足は賃上げを求める追い風です」。明日香は理由を大阪大教授の佐々木勝さん(45)に電話で聞いた。「賃金を決める基本は需要と供給です」。人材獲得競争が雇用市場全体の実質賃金引き上げにつながるという。

事務所では、所長が「人手が足りない」と嘆き節。明日香が「給料が上がりますか」と聞くと、所長は「収益が伸びないことには賃上げの原資がないよ」と、ため息。

◇            ◇

■収支合っていた賃金カーブ

日本の賃金は、入社したての初任給から、勤続年数が伸びるに従って上昇する右肩上がりのカーブを描いている。早稲田大教授の黒田祥子さんは「生産性と賃金の関係によってカーブが生まれる」と解説する。

入社して間もない時期は、働く人が生み出す付加価値である生産性よりも支払われる賃金が高く、企業側が持ち出しで損をしている状態だ。

経験を積むに従って働く人の生産性が上がるが、賃金はそれほど上がらない。脂が乗りきった中堅社員の時期には、生産性より賃金が低く、企業には“お得”だ。ただ、定年間際になると、再び生産性を賃金が上回る。「入社から定年までを通してみれば、賃金と生産性は収支とんとんになる」(黒田さん)

ただし技術が進歩するスピードが増し、最近はそうともいえなくなっている。たとえば20代で蓄えた経験や知識が40代になると陳腐化し、生産性が落ちてしまう恐れがある。すると賃金が生産性を上回って企業が持ち出しになる期間が長くなり、収支が合わない。

「中高年の賃金上昇を抑え、若手に厚く配分する企業が出ているのは、生産性に見合うように賃金カーブを見直しているからだと考えられる」と黒田さん。働く側が時代の変化に対応して、自分の生産性を高める努力がますます必要になりそうだ。

(編集委員 大賀智子)

[日本経済新聞朝刊2015年2月17日付]

ライフコラム 新着記事

ALL CHANNEL