道徳性の起源 フランス・ドゥ・ヴァール著 他者思いやる心探究する科学

2015/2/4付 日本経済新聞 朝刊

 私たちは、他者を思いやる。相手がたとえ見ず知らずの人であっても、事故や災害にあった人たちの痛みや悲しみを、我が事のように感じることができる。これは、生物学的に備わった何かなのだろうか? それとも、他者を助けなければいけないという教育の賜物(たまもの)だろうか?

(柴田裕之訳、紀伊国屋書店・2200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 本書の著者は、長年、チンパンジーとボノボの双方の行動を研究してきた。この2種は、私たちともっとも近縁な類人猿だが、性格がかなり異なる。しかし、著者が明らかにしたいのは、人間性の根源の問題である。中でも、他者を思いやる心は人間に固有なのか、道徳が生じる基盤には生物学的なルーツがあるのか、という問題だ。西欧でこれらの問いに対する答えを提供していたのは、伝統的にはキリスト教会であった。が、神から与えられたという説明に、著者は満足しない。では、それに替わる答えはあるのだろうか?

 本書は、多くの観点から見ることができる。一つは、宗教と科学の関係についての考察。科学は現象の説明を提供し、理解をうながすが、価値判断は提供しない。ヒトの脳がどのように働いているのかは説明するが、いかに生きるべきかを教えてはくれない。科学は発展しているが、果たして本当に宗教を捨て去ってよいものか? 著者は、宗教を完全に否定するのとは異なる論調を提供している。

 もう一つは、道徳性を進化的に解明しようとする、進化生物学の研究の方向について。この数十年の研究では、利他行動の進化は、血縁淘汰と互恵的利他行動の枠組みだけが理論的拠点であった。赤の他人やイヌにまで思いやりを持つのは、進化的には「間違いだ」という論理である。しかし、利他行動は、しょせんは縁者びいきか、めぐりめぐって自分が得することに尽きるとする説明に満足できなかった読者はたくさんいたに違いない。私もその一人だ。それに対して著者は、共感、思いやりといった心的メカニズムに重点を置く。この部分には著者の科学研究の真髄(しんずい)が集約されている。

 最後に、倫理や道徳を考える枠組みのあり方について。おもに西欧の哲学者や倫理学者は、道徳について論理的に考え過ぎている。なんらかの体系が上から降ってこなければ道徳はあり得ないと考えている。そんな考えは捨てて、生物に備わった素朴な感情からついには、人間の道徳が生まれると考えた方が自然ではないか? 最近、類書がかなり出されているが、本書は、それらの中でも格段に奥の深い「進化学的道徳論」である。

(総合研究大学院大学教授 長谷川 眞理子)

[日本経済新聞朝刊2015年2月1日付]

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

著者:フランス ドゥ・ヴァール
出版:紀伊國屋書店
価格:2,376円(税込み)

【関連キーワード】

フランス・ドゥ・ヴァール
ALL CHANNEL