〈わたし〉はどこにあるのか マイケル・S・ガザニガ著脳機能の研究で探るヒトの特異性

2014/10/27

ヒトは生物だろうか――馬鹿げた質問に思える。ならば訊(き)き直そう。ヒトは他の生物たちと同じ原理で動いているだろうか。

(藤井留美訳、紀伊国屋書店・2000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 脳機能の研究にネズミやサルがよく用いられるのは、動物たちの振る舞いを知ることで、究極的にはヒトを知ることに繋(つな)がると期待しているからだ。ところが著者ガザニガはこの考えに否定的だ。彼によれば、ヒトは他の生物と決定的に異なる特別な存在なのだ。「神から選ばれし人類」という優生的な観点からではなく、科学的推論を経ての主張である。ポイントは脳のサイズにある。

 脳が大きければ、神経細胞の結合にコストが嵩(かさ)む。遠くの神経細胞を繋ぐ配線材料やスペースに限りがあるため、結合相手の大半は近傍の細胞となる。この物理的制約の結果、ヒトの脳では情報処理プロセスが各局所で独自に行われる多次元的並行処理がメインとなる。これが自尊心や社会性や道徳性など、ヒト特有の思考癖を生む遠因となる。だから「ネズミを調べたところでヒトは理解できない」というわけだ。

 たとえば、ヒトは擬人化を好む。ペットを見て「甘えたがっている」「恥ずかしがっている」と感じる。動物たちがヒトに似た「心」を持つ保証はないにもかかわらず、つい擬人化してしまうのは、ヒトの脳が「そうデザインされている」からだ。つまりヒトは、ヒトを相手とするよう、生まれながらに神経配線された社会性生物なのだ。

 自分自身についても同様だ。私たちは自分を自由な存在だと信じている。しかし脳に自由意思があるという証拠はない。周囲の環境からの絶え間ない影響の中で自動的に生み出された感情や行動を、ヒトは「私の意思だ」と堂々と錯覚している。

 自由でありたいと願う気持ちは理解できる。しかし著者は「その自由とは何からの自由なのか」と問いかける。「まさか人生経験から自由になりたいわけではあるまい」と。

 意思の所在が曖昧となると、個人の責任の所在も曖昧になる。犯罪は裁けるのか、脳のスキャンデータは法廷証拠として使ってよいか――これが本書のクライマックスだ。

 このところ同分野の類書が連続して3冊出た。アントニオ・ダマシオの『自己が心にやってくる』(早川書房)、クリストフ・コッホの『意識をめぐる冒険』(岩波書店)、そして本書である。いずれ劣らぬ名著だ。ぜひ三者三様の差異を比べていただきたい。あなたは誰派だろうか。

(東京大学教授 池谷 裕二)

[日本経済新聞朝刊2014年10月26日付]

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

著者:マイケル・S. ガザニガ
出版:紀伊國屋書店
価格:2,160円(税込み)

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