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堀江氏(中)は仙台営業所での活躍が評価され、本社で営業統括を任された

堀江氏(中)は仙台営業所での活躍が評価され、本社で営業統括を任された

■イエローハットの堀江康生社長(69)は待遇の良さに引かれて転職した。

繊維会社の技術者として働いていた24歳の時、ふとみた新聞広告がきっかけでイエローハット(旧ローヤル)に転職しました。当時の私には特にやりたい仕事がなく、待遇が良いという単純な理由で決めました。1976年のことです。

当時のイエローハットは、年間売上高が50億円ほどのカー用品卸売業者で、直営店の展開を本格的に始めていました。まず岐阜の営業所に配属され、その後は名古屋で経理や営業を担当しました。人手不足が深刻だったようで、販売員として店頭にかり出されたほか、配達や電話番などを任されることもありました。

入社当時は車への興味も知識もなかったのですが、格安の中古セダンを購入し、ドリンクホルダーなどを色々試してみました。カー用品について猛勉強するうちに気づけば大の車好きに。仕事で疲れたとき、自然公園などに車を走らせて気分転換するのは当時からの習慣です。

■カー用品の注文が殺到、対応に追われる。

入社5年目に転機が訪れます。がむしゃらな努力が報われ、仙台営業所で営業の統括役を任されました。バブル期に入るとセダンなど車がよく売れました。後付けのカーオーディオや交換できるハンドルなどがブームになり、カー用品店から注文が殺到しました。

会社の倉庫で発送する商品を一つずつ手作業で梱包するのですが、あまりにも量が多く、運送業者の最終集荷の午後11時になっても終わらないほど。発送が完了するとそのまま倉庫に座り込み、みんなで出前の中華料理を囲んで食べるのが至福の時間でした。

私は体力に自信がありますが、長時間労働に耐えきれず転職してしまう従業員もいました。人手が足りないときは、なじみの定食屋にアルバイト求人の張り紙を頼みに行ったこともあります。経理や営業など頼まれた仕事はなんでも引き受け、「社内に知らないことはない」と自信を持って言えるほど、現場でほぼ全ての業務を経験しました。

■11年目、社長から本社で営業を統括する課長代理に指名される。

仙台での仕事に慣れてきたある日、当時の社長で創業者の鍵山秀三郎さんから突然電話がかかってきました。なにかと思って電話を取ると「営業統括として本社に来ないか」と言われました。後で分かったのですが、泥臭い働きぶりを見てもらっていたようです。

本社営業部にいたのは私を含め4人のみ。全国の営業所の売り上げ成績を取りまとめたり、戦略会議の議題を決めたりするのが任務です。責任の重い仕事が一気に増え、思わず目がくらみました。

あのころ……

バブル最盛期の1980年代末、日本では空前のカネ余りで車やカー用品が飛ぶように売れた。後付けのカーオーディオが流行し、パイオニアなど各社がシェアを争い続々と新商品を投入。カー用品店の拡大につながった。

ほりえ・やすお 1974年(昭49年)京都工芸繊維大繊維卒。76年ローヤル(現イエローハット)入社。97年取締役、2001年常務。08年から現職。京都府出身。69歳
[日本経済新聞朝刊 2021年4月13日付]

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