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大丸心斎橋店(大阪市)では営業改革を現場のメンバーらと一緒に推し進めた(好本氏は中央)

大丸心斎橋店(大阪市)では営業改革を現場のメンバーらと一緒に推し進めた(好本氏は中央)

■J・フロントリテイリングの好本達也社長(64)は約20年間、大阪で勤務した。

大阪府の実家は繊維工場を経営していましたが、父親からは「うちの会社には一切しがみつくな」と言われて育ちました。その言葉や小売業界への関心から大丸(現大丸松坂屋百貨店)の就職試験を受けました。

1979年に入社し、配属されたのは大丸心斎橋店(大阪市)。希望通りでしたが、2000年まで居続けるとは思いませんでした。その間、大阪からは活気が失われ、バブル崩壊後は百貨店も厳しくなっていった。「母店」と呼んでいた心斎橋店も圧倒的な稼ぎ頭から転落しました。悔しさが募る日々でした。

■会社自体も大きな変革期にあった。

この雰囲気を変えたのが、1997年に社長に就いた奥田務さんでした。抜本的な営業改革を打ち出し、(Jフロント前社長の)山本良一さんが実動部隊を指揮。私は当時、高級ブランドを扱う特選婦人服を課長級の立場でまとめていましたが、「ものすごいスピードだ」と肌で感じたことを鮮明に覚えています。

改革の柱は大きく3つ。最初はマーチャンダイジング(商品政策)の標準化です。商品の企画や調達のノウハウを共有し、属人的な運用からの脱却を目指しました。2つ目は店頭業務の効率化で、現場の生産性を高める上では必須でした。

最後は我々も苦労した部分ですが、販売力の強化です。販売員をどのように教育し、接客を通じて顧客満足度を高めていくか。億円単位の資金を投じて、教育や売り場の分析・改善を積み重ねていきました。これら3点を組み合わせ、数値管理を徹底しつつサービス品質を高めていきました。

■現場のメンバーとは危機感を共有した。

当時はまだ、過去の成功体験が根強く残っていました。管理職の中でも改革への受け止め方は様々で、「うるさいことを言うな」という向きもありましたね。

ただ、私はストンと腹落ちしました。数十人の部下や数百人の取引先スタッフが同じ方向に進めるよう、現場で様々なコミュニケーションをとりました。幸い、メンバーはみな危機感を共有してくれました。人の力を生かすことの重要性を学んだと思います。

大阪で過ごした約20年間は、百貨店内で衣料品の売り場が急速に増えていった時期でした。未来永劫(えいごう)に市場が拡大すると、私も含めた関係者はみな信じ切っていたようにも思います。今の厳しい状況を踏まえると、将来を予測して的確な手を打つことがいかに難しいか、自戒も込めて強く感じますね。

あのころ……

1990年代はバブル崩壊により消費が冷え込んだ一方で、大手百貨店は首都圏の沿線周辺や地方への出店を強化した。海外の高級ブランドも相次ぎ日本に旗艦店を出店し、「陣取り合戦」は激しさを増した。ただ、その後はデフレ時代に入り、消費マインドも大きく変容していった。

よしもと・たつや 79年(昭54年)慶大経卒、大丸(現大丸松坂屋百貨店)入社。大丸東京店(東京・千代田)店長などを経て、12年大丸松坂屋百貨店取締役、13年同社社長、20年5月から現職。
[日本経済新聞朝刊 2021年3月16日付]

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