歌手・早見優さん ジャズの魅力を教えてくれた父
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は歌手の早見優さんだ。
――おばあさま、お母様と3人でグアムとハワイで暮らしていたのですね。
「祖母はドイツ生まれ英国育ちで、25歳のときに結婚して初めて戦前の日本に帰国しました。かなりカルチャーギャップがあったそうです。母は若いころモデルでしたがジャズシンガーの父、井上良と結婚し、1966年に私が生まれました。けれど両親は私が3歳のときに離婚。私たち3人は米国のグアム、次いでハワイに移住しました」
「米国ではシングルペアレントの家庭は普通で特に寂しくはなかったのですが、何かの折に父の不在について話したとき、祖母は『私がお父さん代わり。愛されていれば男女は関係ない』と言ってくれました。祖母は仕事でも家事でも芯が通った人でしたし、母はハワイで会社をつくり、ツアーコンダクターとして仕事をしていました。2人がずっと仕事を続けていたことが、歌い続ける今の私の生き方に強く影響しています」
――お母様とは姉妹のような関係だったとか。
「ハワイでの中学校時代、祖母が母親の役回りで、母は恋愛相談の相手でした。母と私がけんかを始めると取りなすのも祖母。けれどスカウトされ、日本で歌手デビューの話が出たとき、母が反対し、背中を押してくれたのが祖母だったのは意外でした。83年に『夏色のナンシー』がヒットし、紅白歌合戦に出場したとき、祖母がハワイで放映された姿を見て『紅白で見たよ』とうれしそうだったことが思い出されます」
「デビューの約2年後、私が18歳のとき祖母が亡くなり、25歳のときには、会社を売却して私と同居していた母も急に亡くなりました。そのころレコードの売り上げが落ちてきたため、歌中心から芝居にも仕事領域を変えるよう所属会社に言われ、ショックを受けていた時期でした。そこにジャズの先輩として現れ、歌手としての新領域を示してくれたのが父でした」
――お父様との交流は?
「グアム・ハワイ時代から1~2年に1度帰国したときに会っていました。母は私に『会ってきなさいよ』とよく言っていましたし、母の生前も私は父に、自分の歌手としての進路について相談していました。父は『売れるばかりが歌手ではない。一人でも聞きたいという人がいるなら歌い続けるべきだ』と言いました。父に誘われてジャズクラブにも出向き、4ビートの魅力を知りました」
「ジャズを語るとき、父の目は輝いていました。私は22歳のときから、父とジャズのジョイントコンサートを始めたのです。父は2009年に亡くなりましたが、その前には年数回、同じステージに立っていました。若いころは祖母と母、その後は父との関係が支えになったわけで、人生って不思議だと感じます」
(聞き手は生活情報部 礒哲司)
[日本経済新聞夕刊2021年3月16日付]
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