児童文学作家・斉藤洋さん 何人もの母、価値観多様に
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は児童文学作家の斉藤洋さんだ。
――お父さんはよく作り話を聞かせたそうですね。
「嘘の話ばかりしていました。兄が海軍少佐で、駆逐艦で砲撃に遭って海に沈んだ話など、何回も聞かされました。大人になってから親戚に尋ねたら、父は長男でした。えらいのは何回話しても細部が同じで、ボロが出なかったこと。記憶力はよかったのです」
「友達と釣りに行った帰り、キツネに化かされて車で何度も同じ道をぐるぐる回ったという話もありましたね。母もキツネに化かされた話はよくしていました。買った油揚げがなくなっていた、というものでありがちな作り話でしたが」
「父の話が正しかったこともありました。小学6年生の冬、兄と山で遭難しかけました。とにかく歩き続けたら突然、車道に出て、偶然タクシーが来て助かりました。父から『道に迷ったときはとにかく歩けば違う道に出る。そこから人生が開けることがある』と言われた通りでした」
「思えば私がデビュー作『ルドルフとイッパイアッテナ』を書いて新人賞に応募したのも、大学の非常勤講師でお金がなかったから。作品を書くのは大変でしたが、一生懸命やっていればなんとかなる、と思っていました」
――お父さんはどんな仕事を?
「もとは歯医者でしたが、40歳を過ぎてから医者になりました。大学病院に勤めた後、私が生まれるころは船医をしていたので、『洋』と名付けたそうです。物心がついたときには診療所を開いており、母が手伝っていました。私は7人きょうだいで、母は5人。父は地元の名士だったので後ろ指をさされることはありませんでした」
「3人の異母きょうだいとともに育ちました。父も母も忙しく、毎日食事を作ってくれたのは兄の母でした」
――複雑な環境だったのですね。
「父に抱っこされたのは一回しかありません。両親がけんかをすると、母が私の手を引っ張って家を出ようとする。そのせいか、今でも人に手をつながれるのが怖いです」
「少年期を生き延びられたのは、ご飯を作ってくれた兄の母や他の大人がいたからです。近所のおばさんは『今日はご飯を食べていきな』と気にかけてくれました」
――幼少時の体験が創作に影響していますか。
「不思議なことを、さして不思議と思わないのは、子どものころの環境のせいかもしれません。うちはよその家のように父と母が1人ずつじゃなく、お母さんが何人もいる。こっちの世界では通用するルールが、あっちの世界では通用しない。だからおばけや、キツネの世界があって、人間界とは違うルールや価値観がある、と自然に思えるのかもしれません」
(聞き手は生活情報部 関優子)
[日本経済新聞夕刊2021年2月2日付]
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