石原恒和・ポケモン社長 父に囲碁教わりゲーム好きに
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はポケモン社長の石原恒和さんだ。
――両親はご健在。
「ずっと三重県鳥羽市で暮らしています。父は昭和3年(1928年)生まれで12人きょうだいの11番目。父以外は女性で、石原家のただ1人の男児として宝物のように扱われたようです。家は釣り船宿を経営。父はお客さんを船に乗せて伊勢湾でスズキ、タイ、メバルなどを釣っていました。母は父より5歳下で、松阪市の農家出身。小じゅうとだらけで苦労したようですが、調理師免許を取り宿で料理を出したり弁当を作ったりしていました。本当によく働く両親でした」
「小学校3年生のころ船に乗ったのですが、すぐに船酔いをしてしまって。3~4人が乗る小舟だったからものすごく揺れるんです。魚釣りも船も嫌だし、毎日魚ばかり食べさせられるので、魚も嫌いになっていました。今考えるとどこで食べるよりもおいしいスズキやタイの刺し身でしたが、当時はハンバーグやカレーに憧れました」
――父親はどんな方?。
「あまり愛想のよい方ではなかったのですが、腕の良い漁師で、父の船に乗りたいというお客が多かった」
「父は身を粉にして働いていたけれど、実は趣味の人だったんだなと、僕は50歳になってやっと気づきました。若いころは俳句が好きで文芸で身を立てたいと思っていたようです。80歳になったとき、作りためた俳句をまとめたいというので僕が手伝って句集を出しました。釣りの情景が目に浮かぶような句が多かった。父の『桜鯛跳ね計量の定まらず』という句が好きです。魚釣りを趣味のように楽しんでいたかもしれないと感じました」
「囲碁も好きでアマチュア5段か6段くらいの腕前だった。囲碁は父に教わり、将棋は常連の釣り客に教わりました。でもほぼ毎日釣りに行ってしまうので、私は1人で将棋や囲碁を指していました。ゲーム好きになり、ポケモンのゲームやカードゲームをプロデュースするようになった原点はこのころにあったと思います」
――親子とも好きなことを仕事にしたのですね。
「父とは絶対に似ていないと思っていたんです。ところが両親の金婚式のお祝いで家族で温泉旅行に行ったとき、母が宿の電話に出た僕を父と間違えたんです。写真を撮ると背丈も一緒。母に『おんなじやなあ』と言われて、実は何もかも似ていたんだと気づきました」
――それから両親との付き合いに変化はありましたか。
「父にiPadを贈ったら、メールが打てるようになった。最初はひらがなだらけのメールだったけれど、最近は私よりしっかりした文章を送ってくる。囲碁のオンライン対戦ゲームもする。テレビ電話で会話する際は、母もきちんと化粧して加わります」
[日本経済新聞夕刊2020年12月22日付]
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