38歳で新会社の社長 上から目線で失敗、成長の糧に
タカラバイオ 仲尾功一社長(下)
タカラバイオの開発拠点
中国・大連工場を立ち上げた後、試薬の開発に関わりました。課長だった1997年に売り出したのが、細胞に遺伝子を導入する効率を高める「レトロネクチン」という試薬です。米インディアナ大学と開発し、現在では年間10億円を売り上げる人気商品です。
こうした実績を買われ、2000年に新会社を任されました。宝酒造(現・宝ホールディングス)が51%、日本光電が40%を出資して立ち上げた「宝光電細胞医療」に、社長として出向することになったのです。38歳の時です。
バイオ技術は当時、遺伝子だけでなく細胞の領域まで広がっていました。試薬を主力にしていた宝酒造も事業の拡大を迫られます。医療機器を扱うにあたり立ち上げたのが、宝光電という会社でした。
30歳で立ち上げに関わった大連工場は思い入れがある(最前列中央)
社員は6人ほど。将来は研究開発も進めたいと考え、5億円という潤沢な資本金を持っていました。
扱うのは血液から「造血幹細胞」を自動で分離する医療機器です。血液のもとになる細胞で、骨髄性白血病などの患者の治療に役立ちます。米ネクセル社が開発し、宝酒造が国内独占販売権を取得しました。
しかし、販売を始めても全く売れません。研究用試薬であれば、大学病院の先生方は宝酒造を共同研究相手とみてくれます。一方、医療機器の販売は勝手が違う。患者のために何ができるかを考える必要があります。ネクセル社の経営不振の影響もあり、赤字を垂れ流している状況でした。
日本光電から出向していた50代後半の副社長とは、よくけんかになりました。私の方が20歳ほど年下ですが、「遺伝子や細胞に詳しくないでしょう」「販売権を取ってきたのは宝酒造だ」と相手の話に聞く耳を持ちませんでした。
いよいよ立ちゆかなくなり、02年に会社を解散しました。日本光電に報告に行ったところ、当時の荻野和郎社長に「宝さんのことをいつも応援しています。これをきっかけに大きくなってください」と温かい言葉をかけていただきました。
その時に後悔しました。鳴り物入りで子会社の社長になったことで、上から目線になっていたのでしょう。臨床経験のなさを自覚して、謙虚に教えを請うべきだったのだと思います。
09年にタカラバイオの社長に就任し、14年にはバイオ医薬品の受託製造サービスを立ち上げました。新型コロナウイルス向けのDNAワクチンもその一つです。患者のために何ができるかを考える――。あの失敗は大きな教訓です。
あのころ……
1990年代に始まった「ヒトゲノムプロジェクト」が03年に完了した。遺伝子研究の産業応用も始まり、バイオベンチャーも勃興していく。細胞そのものの研究も00年代初頭から盛んになり、山中伸弥氏が発見した「iPS細胞」などにつながった。