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タカラバイオの研究風景

タカラバイオの研究風景

■タカラバイオの仲尾功一社長(58)は中国・大連市に新工場を立ち上げるプロジェクトのリーダーを任される。

(下)38歳で新会社の社長 上から目線で失敗、成長の糧に >>

宝酒造(現宝ホールディングス)は1979年、バイオ試薬を発売しました。当時はまだ「バイオテクノロジー」という言葉も普及しておらず、日本の先駆け的存在でした。85年に入社した私はカタログを片手に、大学の先生方に営業する日々が続きました。

92年冬、大連市に工場をつくるプロジェクトが立ち上がりました。宝酒造は当時、国内で試薬を製造していましたが、バイオ市場の本場は米国や欧州。海外に打って出て外資と競争するには、価格競争力を高める必要がありました。首脳陣が白羽の矢を立てたのが、企画開発部門にいた30歳の私でした。

■大連市政府と交渉も暗礁に乗り上げる。
なかお・こういち 85年京都大農卒、宝酒造(現宝ホールディングス)入社。02年にタカラバイオ取締役。09年から現職。京都市出身

なかお・こういち 85年京都大農卒、宝酒造(現宝ホールディングス)入社。02年にタカラバイオ取締役。09年から現職。京都市出身

プロジェクトチームは4人ほど。上司から「ゴールデンウイークまでに営業許可を取ってこい」との指令を受け、慌てて大連に飛びました。誘致された工業団地を訪れて驚きました。道路や水道などインフラの整備を約束されているはずなのですが、建設予定地には一面のトウモロコシ畑が広がっていました。

交渉が始まっても、大連市政府との議論は平行線のまま。「バイオ技術とは」「遺伝子とは」「PCR(遺伝子増幅)試薬とは」など、技術の話をしても担当者には理解してもらえません。すでに進出していた日系企業の製品はカップ麺やモーター、プリンターなど比較的分かりやすい。交渉は行き詰まりました。

■開き直って「一芝居」が功を奏す。

そこで私は開き直り、一芝居打つことにしました。

日本から持ってきた数センチほどの試薬のチューブにホテルの蛇口から水を1滴入れ、「これだけの量で1、2万円になる。こんなにもうかる商売をどうしてやらしてくれへんのや」と担当者に訴えたのです。

冗談のようですが、次の日、実質的な営業許可が出ました。以前のように技術の説明に終始せず、中国にとってどんな利益があるのか、付加価値がいかに高いかを伝えられたことが要因だったと思います。

営業許可が下り、95年に工場が竣工しました。大連の人々は勤勉です。日本国内で造るのと比べ利益は倍増し、海外メーカーと競争できる基盤ができました。

この工場は、新型コロナウイルスの感染が拡大する局面で大きな役割を果たします。2020年2月、大連市のある遼寧省政府からPCR試薬生産の緊急要請を受けたのです。現在のタカラバイオの基礎をつくったプロジェクトで、私の原点でもあります。

あのころ……

1974年に組み換えDNAが発見されたのを皮切りに「制限酵素」「PCR(遺伝子増幅)法」などバイオ技術が発展した。宝酒造はPCR製品の国内独占販売権などを取得し、事業を本格化した。90年代にはヒトゲノムプロジェクトが始まり、遺伝子解析の応用も進み始めた。

[日本経済新聞朝刊 2020年11月24日付]

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