新素材フィルム、何度も実験 群馬工場超え世界展開
凸版印刷 麿秀晴社長(下)
凸版印刷の印刷博物館
1991年、山形から東京に異動しました。会社からの指令は、環境に優しいフィルム素材「GLフィルム」の量産体制の確立でした。GLフィルムは酸素や水蒸気を通さない性質を持っています。紙パックの内側などに貼ることで中身の劣化を防ぎ、瓶や缶を代替できます。燃焼時の二酸化炭素(CO2)の排出量が、従来品より少ないのも特徴です。世界が環境配慮を強めるなか、社運をかけた素材開発でした。
開発チームは主任の私を含む5人で発足しました。研究所の試験機を使った検証までは完了。いよいよ工場にある大型の製造機で量産を検証するという段階で、壁に直面しました。
麿社長(後列左から2人目)は、1990年代後半にフィルム素材の世界展開へ奔走した
工場にある製造機は普段、取引先向けの包装材を生産している実機です。生産管理の責任者は顧客への納入を気にして、機械の貸し出しを受け入れてくれません。開発段階では、GLフィルムの可能性をあまり理解してもらえなかったのです。
責任者のもとに毎日のように通い、開発の必要性を説きました。週末には、開発チームのメンバーも含めてスキーに行き、仕事を離れて本音で話す機会もつくりました。熱意が通じたのでしょう。責任者から「夜中なら機械を使ってもいい」と告げられました。それから工場で泊まり込み、夜中に実験を繰り返しました。開発者時代に出願した特許は53件で、取得特許は21件になります。
現在のGLフィルムの生産量は98年と比べて15倍に拡大。透明でバリア性能をもつフィルム市場では世界シェア首位です。7年間の課長時代で、その基盤をつくれたと思います。
GLフィルムの量産体制にめどがついた98年、群馬県の工場の生産技術部長になりました。入社から12年で営業、その後の7年で開発を学び、次は工場経営を通じて損益を勉強しろという上層部の判断でした。
私は群馬工場の管理という担当範囲を超え、GLフィルムの世界の生産体制を整えるために海外出張を重ねました。工場建設の提案や安く良質な材料の調達を通じて、競争力のある商材を育てていきました。
振り返ると、多様な領域で積んだ当時の経験が今の経営に生きています。社員にも、自分の担当外の仕事に挑戦するよう促しています。市場のニーズは90年代よりも多様化しています。複数の経験を状況に応じて組み合わせ、顧客の課題に合ったサービスを提供できる企業を目指しています。
あのころ……
1990年代後半、バブル崩壊後の不景気で日本経済は停滞していた。紙の出版市場が96年をピークに減少するなか、印刷業界では、包装材の素材開発をはじめとする新規事業の立ち上げを急いだ。国内市場が冷え込むなか、凸版印刷も包装材の海外展開に注力した。