吉田修一、犯罪小説に新境地 湖から広がる命の思索
「悪人」「怒り」など、吉田修一の犯罪小説は人間の闇の部分をあぶり出してきた。デビュー20年を超えた作家が今回の作品の舞台に選んだのは琵琶湖。自然との対峙が新境地を生んだ。
「湖はこんなに美しいのに、なんで。そんな気持ちで書いていた」
「湖の女たち」(新潮社)は琵琶湖の近くに建つ介護療養施設で起きた、入居者の死亡事件で幕を開ける。人工呼吸器を付けていた100歳の男性が亡くなった。機器には安全装置がいくつも施されている。誰かが故意に止めたのか。
海と異質の感覚
吉田はこれまでも実際の事件に想を得た小説を著してきただけに、このあらましからは滋賀県の病院であった入院患者の死亡を巡る冤罪(えんざい)事件が思い浮かぶ。看護助手の女性が殺人罪で服役した後、今春、再審無罪が確定した。彼女は任意の聴取に呼吸器のチューブを外して患者を殺害したと自白して逮捕されたが、供述は取調官に誘導されたものだと、信用性や任意性が再審で否定された。
吉田は「事件に興味はあったが、それをそのまま書く気はなかった」と、小説にモデルはいないと話す。「いちばん関心を持ったのは、場所です。同じことが東京で起きていても、さほど心を動かされなかったかもしれない」。滋賀県に向かい、琵琶湖を一周した。
計3度、同地に足を運んだ。長崎で生まれ育ち、海が身近にあった作家にとって湖は異質なものだったという。
「湖って、自分が見ているのではなく見られている感覚に陥るんですよ。動かないから穏やかなようで、恐ろしくもある。そして、山や海には覚える『死』を感じなかった。美しいものの先にある危険を感じず、身を守らなきゃという本能がなくなる。人間と自然の境界は、わりと淡いものなんじゃないか。朝を迎えるまでぼんやり琵琶湖を眺めていたときに、そう思った」
作家の関心は、そんな湖のそばで人生を過ごしてきた人の心象へ向かう。本作のヒロイン・佳代は、事件の起きた施設で働く介護士だ。捜査する刑事との湖畔での遭遇をきっかけに、彼女は自身の存在を脅かすような行動に出る。
「たとえば『悪人』や『怒り』では、誰しもが大なり小なり持っている裏の顔や、善悪の価値観を描いた。それはいわば、人間が決める、人間のなかだけの話だった」
だが湖を目に映し続けてきた佳代が見ているものは「人間のなか」にとどまらない。恐れを忘れ、全てを委ね、境界を越えることを是とする。「彼女は『いい人をやめたい』なんていうレベルじゃないところで、比べるものを持っているんです」
佳代と刑事の関係が異形の様相を深めるなか、人間の命と尊厳を揺るがすさまざまなできごとが、過去と現在を、そして小説と現実を往還しながら浮かび上がっていく。
「異質な恋愛を書くつもりが、ふたりの小さな世界に光を当てて広がる先に、事件や歴史が次々と出てきた」。そのなかには、神奈川県の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺された事件や、与党議員がLGBT(性的少数者)を「生産性のない人間」と呼んだ、記憶に生々しい発言も含まれる。
罪深い言葉
「ここに出てくる人たちの言葉がどれほど罪深いかは、みんな分かっている。だが、こういう考え方をする人もいる。いるのが世界。それを書くというのは、小説を書き始めたころから変わらない」
吉田にとって小説が目指すものは、正しさの主張や啓蒙ではない。だからこそ、命を巡る複雑な思索が可能にもなる。
「湖の女たち」はタイトルが示すように、湖を見つめ続けてきた女たちの物語でもある。
「僕は女性を弱いものとして書くことが多い。そこに古さを感じる方もいると思う。だけど、弱者を強く書くのは僕の書き方じゃない、この人たちを強く見せちゃだめだという思いがある」と力を込める。「弱さとは強さでもある。弱さと強さの逆転、そこまで書けるようになったらいいですよね」
(桂星子)
[日本経済新聞夕刊2020年11月16日付]
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