3年で1000人配転、ライバルと共闘し専務口説き落とす
東京ガス 内田高史社長(下)
東京ガスのパイプライン
人事制度改革の総仕上げは、1992年に策定した経営構造改革「リストラ2010」の具体化でした。東京ガスは70年代から液化天然ガス(LNG)への転換を進め、その際に大量に人員を採用していました。それが一段落し余剰人員が目立つようになっていたのです。目標は3年間で1000人を配置転換すること。子会社への出向も含む人員整理に着手しました。
<<(上)現場一筋から人事部へ、労組との激論通じ盟友に出会う
ガスの開閉栓や検針業務、定期保安巡回を外注したほか、系列子会社も増やし、本社から切り離すことを始めました。社員の解雇はしませんでした。出向の拡大と強化分野への再配置、採用抑制、労働時間の短縮などで対応しました。
「俺の目が黒いうちは絶対やらせない」。スリム化計画には保守担当役員の専務が猛反対しました。考えれば専務の気持ちは分かります。
そこに登場したのがかつての対立相手。労働組合の名物書記長だった男です。ちょうど人事部に配置されており、2人で専務を説得することになりました
「他のガス会社でもやっている」。労組時代と同様に猪突(ちょとつ)猛進して押しまくる彼を、私がなだめる役回りです。かつてのライバルが名コンビとなって専務を説得。最終的に納得してもらうのに1年かかりましたが、「保安をちゃんとできるように役所に説明しろよ」と言って了承してくれたのです。
2人でなし遂げた仕事は今でも誇りです。彼も「うっちゃんと組んでやった仕事は楽しかったな」と今でも言ってくれます。
課長時代の最後は、総合企画部で過ごしました。当時の社長に与えられた使命は、執行役員制度の導入です。先駆けて制度を入れていた東芝に話を聞き、構想を固めていきました。
執行役員制度と並行して社外取締役の導入についても会社として検討をしていました。取締役会を活性化するのが目的でした。
その過程で一つの問題が起きました。管理監督と執行の総責任者だった当時の会長から、執行の権限を社長に移管することになったのです。誰がそのことを伝えるのか。白羽の矢が立ったのは私でした。
「なぜ私が」という思いを抱きつつ、大量の冷や汗をかきながら懸命に説明したことを思い出します。会長には冷静に受け止めてもらいましたが、今でも胸がドキドキします。課長だった10年間は、今につながる会社の骨格をつくった時代でした。
あのころ……
1999年に大規模商業施設向けのガス事業が自由化され、ガス業界は本格的な競争時代に突入した。97年には地球温暖化対策の国際条約である「京都議定書」が採択された。現在に続く電力・ガス自由化、低炭素社会への移行につながる出来事が相次いだ時代だった。