現場一筋から人事部へ、労組との激論通じ盟友に出会う
東京ガス 内田高史社長(上)
7月に異動するとすぐ、労働組合との秋季労使交渉を任されました。労組担当の課長職として退職金の上乗せや病欠休暇制度の導入を担当しましたが、中でも苦労したのが諸手当をめぐる交渉です。
組合側は部署に関係なく諸手当を一律10%上げるよう求めてきましたが、全て受け入れるわけにはいきません。そこで、労働環境が厳しい特殊勤務に就いている社員に手厚く報いることにしたのです。当時はまだコークス炉からガスを生成していました。危険な高炉で働く作業者には満額回答したことで、「会社はよく見てくれている」と褒められたのを覚えています。
うちだ・たかし 1979年(昭54年)東大経卒、東京ガス入社。2010年執行役員総合企画部長、15年取締役常務執行役員、16年代表取締役副社長執行役員、18年4月から現職。千葉県出身。
バブル崩壊後の92年、国は天然ガスを「基幹エネルギー」に位置づけました。東京ガスもそれに合わせて「リストラ2010」という計画を策定。バブル期に進めた外食や冷凍食品などの多角化をやめて、本業のガス事業への回帰を進めました。
秋に続き春季労使交渉も難航しました。組合側が給与のベースアップを求めた一方で、経営のスリム化を掲げる会社側は厳しい回答をせざるを得ませんでした。そのとき私と対峙したのが、社内でも有名な名物書記長でした。
「労働条件を厳しくしたのは会社なのに、なぜ満額回答できないのか」と激しく追及。会社では押し問答が連日深夜まで続き、帰宅した後も「やっぱり納得がいかない」と電話がかかってきます。情熱に根負けしそうになったことも一度ではありません。彼とはその後、本社の人員削減計画の際に盟友としてコンビを組みます。縁とは不思議なものだと思ったものです。
組合との折衝では「会社から言われて必死に働いているんだ」というセリフを何度も耳にしました。好きな仕事を選べないという意味でしょう。人事制度の改革が必要だと考え、そのころ立ち上がったプロジェクトチームに志願しました。
改革の狙いは「一人ひとりが成果を出せる」制度をつくること。採用区分を営業や基盤技術、経営支援など6つに分け、15の専門コースを設けて課長になる直前まで専門性を高める仕組みを導入。定年退職後も視野に入れ、シニア層向けに6つのセカンドライフコースをつくりました。
従業員の希望に沿って会社が長期的な育成を手がける、今でいう「エンゲージメント」を重視した制度でした。労働環境は変わりましたが、今も創設当時の精神は生き続けています。
あのころ……
1970年代以降、ガス各社は調達先の多様化を迫られた。東京ガスはアラスカ、ブルネイ、マレーシアに続き、89年にオーストラリアから液化天然ガス(LNG)を輸入し始めた。95年には工場など大口需要を対象にした都市ガスの自由化が始まり本格的な競争時代に突入した。