タイヤ販売、国内シェア1割に 大型店で商圏広げる
オートバックスセブン 小林喜夫巳社長(下)
小林氏(左)は創業者の住野さんから多くのことを学んだ
全国のフランチャイズチェーン(FC)店舗は当時、地域ごとの販売店からタイヤを仕入れていました。調達価格はばらばらです。300超の店舗を抱えながら、スケールメリットを生かせていませんでした。
商品部でタイヤの販売強化を担っていた私は、「本部でまとめて買うので、伝票を送ってくれ」とFC加盟店に頼んで回りました。伝票の数字を巻物に転記して全社の販売数をおおまかに計算し、それを持ってメーカーと交渉するのです。仕入れコストを抑制できたことで、タイヤ販売数は順調に増加。90年には国内販売の1割にあたる年間200万本を達成しました。
90年代後半には店舗数の増加が頭打ちになりました。そこで始めたのが品ぞろえを強化した大型店舗「スーパーオートバックス」です。年に1回売れるかどうかという珍しい商品まで販売することで商圏を拡大し、遠くから足を運んでもらえるようになりました。
イベントにも力を入れました。私は当時、九州地方の店舗の統括をしていました。修理や整備を提供するだけでなく、顧客に車を走らせる楽しさを知ってほしいという思いから、大分県のサーキットを貸し切るイベントを始めました。
2001年からは海外事業を担当し、1年の半分くらいは海外を飛び回りました。ある地域では現地企業と組んで店舗進出に向けた物流拠点をつくったものの、協力会社が法律上の問題で事業を断念。巨額の赤字と使わない物流網だけが残ったこともありました。
創業者の住野利男さんから経営に必要な多くのことを学びました。いつも突然「売上高が伸びないのはなぜか」などと問いただされ、即答できなかったら怒られました。常に質問に応じられるよう、あらゆるケースを想像する姿勢が育まれたと感じています。
オートバックスでは当時、年間の売り上げ目標を達成した店舗のオーナーを海外旅行に連れて行く習慣がありました。住野さんは現地のホテル周辺を散歩するのが好きなのですが、建物などに興味を持つと「あれはなんだ」などと聞かれます。私は事前に周辺を歩き、建物の名前などを調べておく必要がありました。
新型コロナウイルスのように、想定外のことは起こります。不意の質問に対処し続けたことが、会社を経営するうえで大きな財産になっています。
あのころ……
1990年代はカーナビの普及が進んだ。90年にパイオニアが初の市販品を発売した。走行中も現在地が分かる全地球測位システム(GPS)は画期的だった。ソニーや東芝など大手電機メーカーも相次いで発売し、国内勢の競争が過熱した。