救命の優先判定に訴訟リスク 救急隊・家族のケア課題
救急医療の現場で負傷者の治療や搬送の優先度を判定する「トリアージ」の法制化を求める声が上がっている。現状では法律に基づく免責規定がなく、判定に誤りがあったとして訴訟に至った事例もある。救急医らは「現場が萎縮して救命率の低下につながりかねない」と懸念しており、関係団体は制度化に向けた提言づくりを始めている。
「火災事案があります。何人受け入れられますか」
「赤タグ10人受け入れられます」「赤3人、黄2人可能です」
2019年7月18日、京都アニメーションのスタジオ(京都市伏見区)で36人が犠牲となった放火殺人事件。30人以上が負傷し、京都市消防局と複数の病院との間で緊迫したやりとりが繰り返された。
最初の通報から約10分後、現場に到着した京都市消防局の救急隊はスタジオから半径約120メートルの範囲に逃れた京アニ社員らに重症の「赤」、中等症の「黄」、軽症の「緑」のタグを付けるトリアージを実施した。ほぼ完了したのは約45分後で、判定に基づき、搬送する病院を振り分けた。市消防局は「迅速にトリアージを展開でき、スムーズな治療につなげることができた」と振り返る。
トリアージは、大規模な事件や事故、自然災害などで多数の負傷者が発生した現場で、救命率を向上させる有効な手法とされる。医師や救急隊員らが判定に当たるが、現状では法的な免責規定がなく、判断やその後の対応が正しかったのかどうかが問われる可能性がある。
実際に訴訟になったケースがある。東日本大震災で石巻赤十字病院(宮城県石巻市)に搬送され、トリアージで軽症の「緑」と判定された女性(当時95)が3日後に脱水症で死亡。女性は震災前に「要介護5」と認定されており、必要な対処を怠ったとして、遺族が病院側に損害賠償を求めて仙台地裁に提訴した。
石巻赤十字病院によると、当時は通常の10倍程度となる約700人の救急患者が搬送されていた。同病院は津波被害を免れた数少ない医療機関の一つで多くの被災者も身を寄せており、薬や食料が底を突きかけていた。石橋悟院長は「人材や医療物資が限られる中で、治療を要さない患者を『黄』と判断することはできなかった」と振り返る。
2019年12月に和解が成立し、判決には至らなかった。医療訴訟に詳しい永井幸寿弁護士は「災害医療での病院の対応に司法判断を下すことが難しいとみて、裁判所が和解を勧めた可能性もある。ただ今後は司法判断を迫られる事例も出るだろう」と指摘する。
司法判断が出れば救急現場に大きな影響を及ぼす可能性がある。京アニ事件で救急医療に携わった京都医療センター(京都市)の西山慶救命救急センター長は「司法の場でトリアージの判断が不適切と判断されれば現場が萎縮しかねない。トリアージに携わる人がいなくなれば、救命率が下がってしまう」と懸念する。
1人あたり30秒程度が目安とされるトリアージは、10~30%の誤りが発生する可能性も指摘されている。
永井弁護士は「大災害のような緊急時では医師らが判断ミスを起こすこともある。こうした状況で責任を問われるべきではない」としてトリアージの免責に関する法整備を訴える。一方で「判断ミスの被害者となった患者の遺族の心情にも配慮しなければならない。医療従事者の免責と同時に補償についても議論が求められる」と話す。
このほか、救急隊員や看護師がトリアージを実施した場合、判断が「医療行為」とみなされれば医師法に違反する恐れもある。現場には医師よりも救急隊員らが早く到着するケースが多い。永井弁護士は「トリアージを担当する主体について、救急救命士や看護師も法律で明記することが必要だ」との考えを示す。
近年は、一度に大勢が死傷する大規模な自然災害が相次ぎ、急病や事件・事故以外でも救急の必要性は高まっている。
日本医師会や日本救急医学会などは19年10月、災害時のトリアージの在り方について議論する委員会を立ち上げた。今後、免責を含めた制度の必要性や、災害時におけるトリアージの重要性に関する提言をとりまとめる方針だ。ただ新型コロナウイルスの影響で、今年2月以降は議論が止まっており、とりまとめの時期は決まっていない。
同委員会代表の大友康裕医師は「緊急時に一人でも多くの命を救うためにトリアージは必須。法整備も含め、何らかの形で制度を作ることが必要だ」と話している。
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遺族ケアの取り組みも 尼崎脱線事故で本格導入
トリアージはフランス語の「選別」が語源だ。負傷者の重症度に応じて「緑」「黄」「赤」「黒」の4つに区分する。日本で共通化されたトリアージは、2005年4月に兵庫県尼崎市で起きたJR福知山線脱線事故で初めて大規模に実施された。
脱線事故では乗客106人と運転士1人が死亡、562人が負傷した。トリアージの実施で緊急度の高い負傷者から救急搬送することができ、救急医の間では評価する声が上がった。
しかし翌06年の日本集団災害医学会では、タグの判定や診断に疑問を抱き悩み続ける脱線事故の遺族らの思いが報告された。搬送順位が最も低い黒タグが付いた被害者家族のケアの必要性も認識されることになった。
そこで立ち上がったのが日本DMORT(兵庫県西宮市)だ。DMORTは災害死亡者家族支援チームの略。災害時の避難所などで遺族に寄り添い、話を聞いたり負傷していれば応急措置をしたりする。研修を受けた医師や看護師らは約700人に上り、活動の幅が少しずつ広がっている。
(三浦日向)
[日本経済新聞朝刊2020年10月5日付]
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