8Kの美、難題越え豊かに 黒沢清監督「スパイの妻」

「スパイの妻」の場面(C)2020 NHK, NEP, Incline, C&I
「スパイの妻」の場面(C)2020 NHK, NEP, Incline, C&I

黒沢清監督がNHKと組み、超高精細の8K映像で新作「スパイの妻」を撮り、2日開幕のベネチア国際映画祭のコンペ作に選ばれた。日本を代表する監督は最新技術にどう挑んだのか。

物語は1940年、太平洋戦争直前の神戸が舞台になる。満州(現中国東北部)で重大な国家機密を偶然知り、正義のために世に知らせようとする貿易会社社長(高橋一生)。その夫を信じ、時代に翻弄されながらも愛と信念を貫こうとする妻(蒼井優)がヒロインのラブサスペンスだ。

8Kドラマとして制作され、NHKのBS8Kで6月に放送。劇場上映に合わせ、1秒あたりのコマ数などを調整し、映画版を完成させた。

昨秋の撮影は、演出や美術、衣装などは黒沢組の映画スタッフ、撮影と照明などはNHKのベテランが担当した。BS8Kは2年前に本放送が始まったが、撮影技術も発展途上にある。それでもテレビ放送は現在一般的な2Kに比べて画素数が4倍の4K、同16倍の8Kと高精細映像へと着実に向かう。映画とテレビのスタッフが垣根を越えて集まり、将来を見越しつつ、最新技術に挑んだ。

リアルさが壁に

8K撮影で試行錯誤を重ねた黒沢監督

撮影に入ると、改めて「すごい技術であり、やっかいでもあると実感した」と黒沢監督は振り返る。「8Kはまるでそこにあるかのように見える。スポーツ、音楽ライブ、自然を撮るならきめ細やかで生々しい。だが、ドラマを撮るとどうなるか。『俳優がそこで演技している』としか見えない。つまり全くの作りものにしか見えなかった」

8Kは遠くの背景まではっきりくっきり映る。監督は「映像で物語るには、ある種のフィルターをかけフィクション化することによって初めて成立する」と指摘。リアルな美しさは、フィクションを描く場合、むしろ難題とみた。

粒子を粗くしたり、色彩を濁らせたりと映画的なフィルターをかけてみたが、再び壁に突き当たる。「確かに緻密さは消える。だが、そうなると8Kの良さが全く失われてしまう。映画らしいフィルターをかけつつ、8Kならではの美しさも残したい。そんな矛盾した欲求が生まれた」

「引き算の撮影」

それに応えるため「引き算の撮影をした」と語るのはNHKのカメラマン、佐々木達之介氏だ。「8Kは人間が目視している以上に高精細。そこから何を省いて、どれを生かすかを考えた」という。照明の木村中哉氏は微妙な色合いまで表現できる特長に注目。「当時の闇の部分を描くドラマの内容に合わせ、暗い場面で黒をどう見せるのかなど工夫を凝らした」と話す。

遠くを歩くエキストラまで当時の衣服、髪形を再現し、きちんと整えた。監督は「細かいところに気を配り、それを積み重ねることで映像は豊かになる。細かなこだわりが分かる8Kは今回の作品に向いていたかもしれない」と感じた。

黒沢監督にもう一つ新鮮な感慨をもたらしたのは教え子たちとの協働だ。脚本の浜口竜介、野原位の2人は東京芸大大学院で監督の教えを受けた。浜口は「ハッピーアワー」などで映画監督としても注目を集める。「浜口の悪い癖でもあるが、大量のせりふを書いてきた。でも蒼井さん、高橋さんのようなうまい俳優が演じるとせりふに耳を傾けたくなるし、心にも入ってくる。俳優に力量があると、長ぜりふは見応えがあると改めて思った」という。

監督が「俳優が演じそれを撮る、という行為は同じだが相当違う」と指摘する映画とテレビから集結した混成チーム。歩み寄り、試行錯誤を重ねて、ベネチア国際映画祭の最高賞を競うコンペ部門で日本作品としては唯一出品を果たした。10月16日から日本公開される。

(関原のり子)

[日本経済新聞夕刊2020年9月1日付]

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