ポンプ技術生かし米市場開拓 分かったふりせず解決
荏原 浅見正男社長(上)
荏原は1985年、ポンプの技術を生かした半導体製造装置事業を立ち上げました。主力は製造工程を真空にするためのポンプです。それまでは油を使ったものが主流でしたが、使っているうちに汚れが付着するのが問題でした。
そこで当社は油を使わないポンプを開発。当時人気だったアサヒビールの商品にあやかり「ドライレボリューション」と例えてお客さんに販売していました。
国内で地盤を固め、海外に出て行くタイミングだった88年に、私は海外営業部に異動しました。
あさみ・まさお 86年(昭61年)横浜国大工卒、荏原入社。10年執行役員。15年執行役常務。19年から現職。東京都出身。60歳
プロダクトマネジャーに就任し、現地でのシェア拡大を任されました。半導体メーカーの要望を聞いて機械を販売したり、適切なラインアップがない場合は、日本での開発につなげたりするのが役目です。
米国赴任が決まったとき、当時の上司だった矢後夏之助・前会長からこんなアドバイスをもらいました。「お客さんからみれば、あなたが荏原の代表だ。お客さんの行動に結びつくため、確信が持てるまでイエス、ノーを言うな」。これが心の支えになりました。
半導体の製造装置は、納入直後は順調に稼働しません。装置が止まったり、腐食したりの繰り返しです。ただし、ここで曖昧な回答は禁物です。後で故障などで大きな迷惑をかけることになりかねません。原因や解決策を判断できないときは分かったふりをせず、「分からない」とはっきりと顧客に伝えていました。
技術者のプライドは二の次です。自分で納得するまで調べ、社内で分かる人を探して相談し、荏原としてのベストアンサーで回答することを心がけました。
赴任当初は現地社長も含めて4人しかおらず、顧客対応は一人でやらざるを得ませんでした。ポケットベルに「911」と表示されれば顧客のもとに直行し、飛行機での移動中も備え付けの電話で対応していました。東海岸のボストンでは、雪の中をレンタカーを走らせた記憶があります。その仕事の後に、顧客がロブスターをごちそうしてくれたことが忘れられません。
装置が大手メーカーに採用されれば、全世界に展開されます。毎年何百台と売れていきました。赴任当初は1億円程度だった現地法人の売上高は、99年に日本に帰国する頃には数十億円規模に育っていました。新しい装置を開発して世界に問う、わくわくする時代でした。社長として、そのような場を社員に提供できるかが大事だと思っています。
あのころ……
日本の半導体は1980年代、世界を席巻した。電機各社だけでなく資金力のあるメーカーが続々と半導体関連事業に参入し、海外進出も相次いだ。一方で86年に日米半導体協定が締結されるなど、貿易摩擦も激しくなった。