祇園祭最大の見どころ 山鉾巡行は高級装飾品の見本市
京都祇園祭の最大の見どころとなる山鉾(やまほこ)巡行。今夏は新型コロナウイルスの影響で58年ぶりに中止が決まったが、江戸時代は高級装飾品の見本市としても機能していたことがわかってきた。
豪華に飾り付けた山と鉾が都大路を進む山鉾巡行。きらを競う祭礼というだけでなく、江戸時代には全国の買い付け商人が目を光らせる染織技術の見本市でもあったという。
前後左右を彩る
33基ある山鉾の一つ、鶏(にわとり)鉾(ほこ)。直径が大人の丈ほどもある車輪が支える屋形(本体)ははやし方、屋根方ら20人前後が乗り込み、約40人がかりで引く。絢爛(けんらん)豪華な高級染織の懸装品が前後左右を彩る。中でひときわ目を引くのが、背面を飾る見送幕(みおくりまく)「鶏鉾飾毛綴(かざりけつづれ)」だ。
これと対を成すのが、滋賀県長浜市に伝わる「長浜祭鳳凰山(ほうおうざん)飾毛綴」。こちらは長浜曳山(ひきやま)祭で12基ある曳山の一つ、鳳凰山の見送幕として飾られる。両方の見送幕はともに縦約2.7メートル、横約1.7メートルあり、もとは一体だった。16世紀のベルギーで制作されたゴブラン織のタペストリーだ。
描かれているのは、ギリシャ連合軍を迎撃するために出陣するトロイアの王子を妻子が見送る場面とされる。「当時の町衆がどこまで異国の物語を理解していたかは不明。ただ戦士と女性たちのほか子供の姿も見え、祭りにふさわしいモチーフとして採用を決めたのでしょう」と村上忠喜・京都産業大学教授は語る。
裁断された半分「鳳凰山飾毛綴」は1817年に200両で買い取られていた。それを裏付ける文書が、長浜に残っていたため、2つの見送幕がもとは一体だったことはかねて知られていた。この売却を仲介したのが、名古屋・尾張藩御用のいとう呉服店(松坂屋=現大丸松坂屋百貨店=の前身)だったことが、2004年に判明した。
突き止めたのは、長浜市曳山博物館の元学芸員・森岡栄一氏だ。「現在の3000万円に相当する大きな取引だが、文書に名を連ねる顔ぶれが不明だった。名古屋市博物館の学芸員の協力で『伊藤御店』とあるのが、松坂屋の前身のいわば京都支店だったことがわかった」という。
当時、京都は高級染織製品の集散地。かたや長浜は絹地・ちりめんの産地で、京都を得意先とする供給拠点。両者は経済的に強いつながりがあったはずだが、なぜ名古屋の豪商が仲介したのか。「いとう呉服店は愛知県内でも祭礼向け装飾品の製作を手広く請け負っていた。その下絵を京都の名高い絵師が手掛けていた例が多い。高級染織の受注と納入は『京都支店』業務の主な柱だったのでは」と森岡氏はみる。
技術の動向知る
江戸期には三井など全国の有力呉服商が京都に出先を持つのは常識だった。村上教授は「糸や布の流行のきざし、産地間勢力図の変容、染めや織りに絡む先端技術の動向をいち早くつかむのに、京都の繊維問屋街は重要な情報源だった」と指摘する。
例えば、1815年に作られた油天神山(あぶらてんじんやま)の見送幕は西洋の王侯淑女らをモチーフにしているが、純国産だ。「それ以前は幅狭の品しかなかった綴が、大型で織れるようになった、いわば技術革新の成果を誇示する作品。物珍しい絵柄を考案できる環境を含め、祇園祭の山鉾こそ、京都が誇る産業集積の見本市として、得意先にアピールする好機だったはず」と村上教授。
京都文化博物館(京都市)は2011年から8年がかりで企画展を開き、全34基ある山鉾に伝わる文化財を調べてきた。「高名な画家が描いた下絵を飾り金具で浮き彫りにしてみせるなど、山鉾が高級装飾品のショーケースとして、商談が交わされていたのでは」と橋本章・京都文化博物館学芸員は分析する。
(編集委員 岡松卓也)
[日本経済新聞夕刊2020年5月12日付]
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