変わりたい組織と、成長したいビジネスパーソンをガイドする

会員登録をすると、編集者が厳選した記事やセミナー案内などをメルマガでお届けしますNIKKEIリスキリング会員登録最新情報をチェック

ヒューストンで建設機械を担当していた当時の山東氏(上段の右から3人目)

ヒューストンで建設機械を担当していた当時の山東氏(上段の右から3人目)

■鉱山機械部隊をまるごと米国に移転する。

中国などでの実績が認められ、三菱商事本社で鉱山機械の専門部隊を課長として率いるようになりました。ただし、日本にいては思うようにビジネスが進められません。当時の大型鉱山機械は米国製やドイツ製が多く、顧客も米国やオーストラリア企業が多かった。そこで上司に「本社のチームまるごと米国に移転したい」と提言しました。

内心はビクビクしていたのですが、快く認めてくれました。下からの提言が適切だと判断したら、それを受け入れてくれる会社でよかったと認識しました。

1997年に赴任した米ヒューストンは、鉱山機械のほか石油ビジネスの拠点でもありました。ここで米国における石油やガスのプラントの商談責任者となり、千代田化工建設との接点ができました。社長になった今から振り返ると、不思議な縁だと思います。

■ペルーの政権交代で赤字の危機に直面。

ヒューストン時代で思い出深いのは、ペルーでの建設機械の商談です。当時のフジモリ大統領は災害復旧用の建機を求めており、日本政府の支援も受けて入札に挑みました。結果として100億円超で受注できました。

ところがフジモリ大統領が急に退陣。後任がこのプロジェクトを否定したことで、一気に窮地に陥りました。メーカーには発注済みだったので、三菱商事が巨額の赤字を出す可能性が高まったのです。

私は毎週のようにペルーへ出向き、政権幹部にプロジェクトの意義を説きました。情報収集のプロなど多くの人を巻き込み何とか動き出しましたが、いつまた止まるか分かりません。建機を船積みするたびに緊張したことを覚えています。

■「その他大勢」の寄せ集め部門を率いる。

2003年にヒューストンから帰国し、プロジェクト開発ユニットという新部署の部長代行になりました。名前は格好いいですが、実態は主力部門以外の「その他大勢」の寄せ集め所帯。重電や化学・製鉄プラント以外で、選択と集中を進めるのが目的でした。

プロジェクトの開発という意味ではなかなか成果が出せず、苦しい日々が続きました。しかし50人近くのメンバーは意気軒高で、いつも私を元気づけてくれました。当時の同僚や部下は、私の大切な宝です。

そのころの上司も私を支えてくれました。「山東、大きく構えろ」と言って細かなことには一切口を挟まず、仕事を任せてくれたのです。だからこそ、部が一致団結できたのでしょう。上司とは懐の深さが大事だと肝に銘じました。

あのころ……

1990年代後半から韓国勢などが台頭し、プラント各社は苦境を強いられた。千代田化工建設は経営破綻の危機に直面し、三菱商事などが支援に乗りだした。従業員を大幅に削減し、液化天然ガス(LNG)プラント建設に特化するなどして当面の危機を乗り越えた。

[日本経済新聞朝刊 2020年5月5日付]

新着記事

Follow Us
日経転職版日経ビジネススクールOFFICE PASSexcedo日経TEST

会員登録をすると、編集者が厳選した記事やセミナー案内などをメルマガでお届けしますNIKKEIリスキリング会員登録最新情報をチェック