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三菱商事の入社6年目で「課長」格として南米チリに赴任した。背後に見えるのはアンデス山脈

三菱商事の入社6年目で「課長」格として南米チリに赴任した。背後に見えるのはアンデス山脈

■1986年、三菱商事の若手社員だった山東理二氏(63)は南米チリに赴任する。

三菱商事にとって当時のチリは、イラクと並ぶ重点地域でした。銅や鉄鉱石などの資源だけでなく、発電プラントや船舶、水産物など巨額投資を幅広く手掛け、競合の総合商社が食い込めない独壇場でした。

そこに入社6年目の私が、機械プロジェクトの責任者として赴任しました。現地では最年少ですが、日本では課長クラスに相当します。若いのに大丈夫かと、現地にいた先輩が不安な顔で歓迎会を開いてくれたのを今でも覚えています。

しかしそこは組織の三菱。私の実力不足を補うため、本社から次々と優秀な先輩が出張してくるのです。そうした先輩が1カ月、2カ月と滞在する間、発電や製鉄プラントの商談ノウハウを徹底的にたたき込んでくれました。これが私の会社人生の礎になっています。

■家族ぐるみの付き合いが、大型投資に生きる。
さんとう・まさじ 81年(昭56)東大法卒、三菱商事入社。2012年執行役員環境・インフラ事業本部長、17年千代田化工建設副社長。17年6月から現職。和歌山県出身。

さんとう・まさじ 81年(昭56)東大法卒、三菱商事入社。2012年執行役員環境・インフラ事業本部長、17年千代田化工建設副社長。17年6月から現職。和歌山県出身。

チリ人はセニョーラ(奥様)に弱いんです。先輩から「将を射んとする者はまず馬を射よ」のアドバイスをもらい、キーマンは必ず夫婦単位で自宅に招待していました。

チリでは間に2人を介すると、あらゆる人と知り合いになれるといわれ、あっという間に人脈が広がりました。その甲斐あって、石炭火力や硫酸プラントなど計7件の商談を獲得できました。後にチリ三菱の社長という立場で再びチリに赴任しますが、若いころに培った人脈が大型投資の際に大きな助けになりました。

■91年に帰国すると、中国での鉱山設備の商談を任される。

三菱商事が主導して日米独の連合体を組み、中国鞍山鋼鉄傘下のプロジェクトの受注に挑みました。

隣の部屋には競合相手が待機し、お互いが入札するたびに価格の出し直しを求められます。「最後のチャンスだ。最終金額を出せ」と言われたかと思うと、2~3日後には「ロックボトム(どん底)価格を出せ」と迫ってくる。競合相手との我慢比べが続きました。

数週間たったころでしょうか、発注元の若い社長が登場しました。私はここが勝負どころだとにらみ、予備費を全部吐き出してギリギリの価格を提示。商談が成立しました。

そこからは値切られることは一切ありませんでした。競合相手が政治ルートで圧力をかけても、社長が「一度決めた約束は変えない」と守ってくれるのです。粘り強く対応すれば、中国人は努力した相手のメンツを必ず立ててくれる。今でもその思いは変わっていません。

あのころ……

国内企業の海外進出は、1985年のプラザ合意を受けた円高不況で本格化した。86年には海外への直接投資が増えはじめ、84~89年までの5年間で民間の直接投資残高が5.3倍になった。国内では株と不動産のバブルが膨らみ始め、日本は空前の好景気に突入していった。

[日本経済新聞朝刊 2020年4月28日付]

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