「調整役」を卒業 新しい仕組みづくりで上司と衝突
メルセデス・ベンツ日本社長 上野金太郎氏(下)
社長や役員の間を奔走した(1998年、当時の社長や社長室長と。右端が上野氏)
日本でも合併に伴いダイムラー・クライスラー日本ホールディングが設立されました。両社の社員がホットドッグとハンバーガーで新会社の門出を祝いましたが、その後は困難の連続でした。
長さの単位ひとつをとってもインチとセンチメートルで違い、考え方も全く異なります。どうすれば合併効果を出せるか毎日遅くまで会議を続けましたが、お互いにブランドへの思い入れが強く議論は平行線をたどるだけ。「なぜクライスラーが後回しなんだ」という不満の声が上がることもありました。
社長の意見を実現するために飛び回り、役員の「尻たたき役」として一回りも二回りも年上の上司に強く出ることを求められました。一方で、現場の声や役員間の板挟みにも悩まされました。結局2007年にクライスラーとは分割されましたが、当時生まれた仕組みが現在もいい事例として社内に残っています。
広報や調整役として過ごすなかで転機が訪れました。ある日上司に「うちの会社で広報をやっていて出世した人なんか見たことがない。上野は一体、何屋なんだ」と言われたのです。何でもこなす「便利屋」として働いてきましたが、主体的に何かをやるという経験がありませんでした。だからこそ、上司の言葉にはっとしたのです。
そこで社長に直訴し、20人程のCRM課を作ることになりました。私は当時、販売力を強化するには、顧客特性を把握する必要があると考えていました。今では当たり前の販売手法ですが、当時は社内でもあまり浸透していませんでした。
CRMの仕組みづくりを進めるなかで壁となったのは顧客情報のデータベース化です。それまでは販売した車の情報を蓄積していましたが、これを顧客情報と結びつける必要がありました。しかし当時社内で恐れられていた上司に「必要ない」と言われてしまいました。私はここを突破しないと次がないと必死でした。
「中途半端なデータは全く意味がない。俺たちは先々何年も会社の将来を背負っていくんだ。あなたが何と言おうがやってみせる」と食ってかかりました。私の勢いに上司は面くらい「そこまで言うんだったら」と了承してくれました。振りかえると、新卒時代から私のやることを見守ってくれていたのでしょう。会社人生のなかで一番苦労し、一番楽しかった時期です。
あのころ……
1996年に過去最高となる32万5千台まで成長した輸入車市場だが、翌97年の消費増税を機に伸び悩む。販売網を安定させたメルセデスは同じドイツ勢のBMWなどと市場をリード。クライスラーとの合併では車両の輸入拠点での点検・整備業務、金融部門などを効率化した。