大阪で「キリン」追う 常に宿題もらい次のアポに
アサヒビール社長 塩沢賢一氏(上)
入社13年目、34歳のときでした。主な仕事は飲食店にビールを卸す酒販店へ営業活動をすること。上司と2~3人の部下がいましたが、営業するときはほぼ1人でしたね。
当社は大阪が発祥の地だけあって、古くからの酒販店や飲食店との関係を大事にしてきました。しかし、飲食店で多く飲まれるためにはそれだけではダメです。競合するキリンビールにいかに勝つかが課題でした。酒販店は他社の商品も扱い、飲食店の新規出店や改装などあらゆる情報も豊富で人脈も幅広い。酒販店の担当者にアサヒもいいね、と思われたい一心でした。
しおざわ・けんいち 81年(昭56年)慶大商卒、アサヒビール(現アサヒグループホールディングス)入社。13年取締役、14年常務。19年から現職。東京都出身。
半分の店舗でアサヒを取り扱ってもらうという高い目標を掲げました。全国から精鋭を集めたのだから、できなければクビだという社内の厳しい視線も感じました。何としてでも、という気持ちで、持参したヘルメットとスリッパを着用して工事関係者に混じり、内装工事も終えていない飲食店ゾーンに入りながら、どう営業をかけるか思案したりもしました。
老舗日本料理店が関空に店を出店するときのことです。普段はキリンを提供する店で、関空ではアサヒを採用してもらうように働きかけました。飲食店の社長は一応話は聞いてみようという姿勢でした。空港は従業員の通勤や水道光熱費などを考えると街の店舗よりコストがかかる。より条件の良い提案のあったビールを選ぼうという意図があったのかもしれません。
社長とは常に話題を探しながら、「今度調べてきましょうか」と絶えず宿題をもらうことで次のアポイントにつなげることを意識していました。成田空港の施設の増設工事ではこんな物販や飲食店が人気ですよ、といった情報を提供しながら関係を深め、受注につなげることができました。
これには大阪赴任前の苦い思い出があります。酒販店の担当者との話題に困り果て、とっさに気になる飲食店の雑談を切り出したとき、思わぬ質問攻めにあったことがあります。
何時ごろ訪ねたのか、男女比率は、酒はどのようなものを飲んでいたか――。観察眼の鋭さとともに、問いかけることで貪欲に学ぼうとする姿勢に強く打たれました。どれだけ相手を深く知ることができて、一人ひとりに異なる課題解決策を考えることができるのか。深く考えさせられました。
あのころ……
国内のビール市場は94年、大手5社のビール系飲料の課税出荷量の合計が約5億7200万ケース(1ケースは大瓶20本換算)と最多を記録。同年、ビールの製造免許の規制緩和で「地ビール」が誕生したほか、より割安な発泡酒が発売されて新たな競争が始まった。