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営業に駆け回った水溶性大豆多糖類は主力製品に育った(左上が清水氏)

営業に駆け回った水溶性大豆多糖類は主力製品に育った(左上が清水氏)

■営業出身者として初めて開発担当の管理職になる。

水溶性大豆多糖類の販売が軌道に乗り始めた頃「小売事業部」の開発室長への異動を命じられました。大豆を原料とするがんもどきや油揚げなどの販売拡大を目的に新設した部署でした。営業出身者が開発担当の管理職になるのは初めてだったと思います。

当時の安井吉二社長から呼び出され「元気がないから何とかしてくれ」と直々に頼まれました。「営業と研究開発の垣根を越えてほしい」との思いがあったのだと思います。当社は技術力が高いがゆえに、消費者の需要よりも作り手の都合を優先する「プロダクトアウト」の意識が強いという課題がありました。

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■けんかを乗り越え、分かり合う。

物事の本質を考えて追求するという意味において、理系も文系も関係ないというのが私の持論です。入社後に配属された油脂課では研究開発は身近な存在でした。食品メーカーの技術者相手に当社が扱うパーム油の細かな特徴を説明し、提案しなければなりません。

同じ目線で話せるよう、勉強しました。「営業は技術なんて知らなくていい」とすら考える研究員とはよくけんかしました。彼らが見せてくれない開発文書をこっそり盗み読んだこともありました。

開発室長に就きましたが、開発員をまとめるのにてこずりました。営業出身の私を見て「何も知らないくせに」と陰口をたたく社員もいました。腹が立ち、思わずこう言いました。「全員オムレツを作ってみろ。料理もまともにできないで、何が食品開発だ」。実際にやらせてみると、鍋一つ使えない者ばかりでした。

一方、私は趣味が料理で子供の頃の夢はコック。カレーを作る際は香辛料を鉢ですっていました。皆の前でオムレツをさっと作ると、彼らの態度が変わるのが分かりました。

■消費者目線を学ぶ。

事業はなかなか軌道に乗りませんでした。ある時、当社の「豆腐ハンバーグ」が豆腐屋でよく売れていたので、スーパーの食肉売り場でも販売しようと考えました。うまくいくはずがありませんでした。食肉売り場には皆、豆腐ではなくひき肉のハンバーグを求めてやって来るのですから。消費者の需要を見通す想像力が足りませんでした。

突破口となったのは生活協同組合からの業務受託でした。注文を受けた商品を規格通り作るのではなく、黒子として開発からパッケージデザインまで手掛けました。ネーミングを考えるため、専門の先生に相談にも行きました。

当時、私が関わった「ごまひじき団子」などの商品は今でも残っています。少しは消費者目線を意識できるようになったのではと思います。

あのころ……

調達や生産の効率化を進める製油業界では再編が進んだ。1960年代には約800社あった国内の油脂会社は90年代には約100社に減った。M&A(合併・買収)の動きは止まらず、2000年代には日清オイリオグループ、J―オイルミルズが誕生した。

[日本経済新聞朝刊 2020年1月28日付]

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