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北米駐在時代にはグローバルの生産体制強化に力を注いだ(右端が小川社長)

北米駐在時代にはグローバルの生産体制強化に力を注いだ(右端が小川社長)

2003年、米国子会社のコマツアメリカに出向した。

海外赴任の初年度は、シカゴにある米子会社本社で副社長だった大橋徹二会長の下、業績管理などで現地工場を行き来しました。

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翌年にはテネシー州のチャタヌガ工場長に就任。当時「2工場長制」をしき、米国人が人事・労務、日本人は工場経営と役割分担をしていました。こちらは日本語なまりの「ジャングリッシュ」なのに対し、現地の製造スタッフは南部なまりのため、現場では双方を理解する米国人スタッフを介して作業を指示することもありました。

米国需要のピークだった05年前後は、新たな試みにもチャレンジした。

一から現地生産では間に合わなかったため、例えば悪路に強いダンプトラックの生産立ち上げでは、40フィートコンテナに「モジュール(複合部品)」を日本で詰め込んで供給してもらい、現地で組み立てる新たな生産方式を始めました。そうすると生産期間もそれまでより短い2~3カ月に短縮できました。日本から生産技術者を呼び、どうすればきっちりコンテナに詰められるか試行錯誤しました。

当社は為替や需要、原価などに応じて、世界の工場の生産量を柔軟に変更して負荷を平準化する「クロスソーシング」を推進していますが、その先駆けでしたね。チャタヌガ工場だけでは油圧ショベルの生産が追いつかず、20トンクラスはタイから供給しました。

「メードインUSA」が「メードインタイランド」になることに代理店からは抵抗もありましたが、「基幹部品は日本で生産しているので性能は一緒です」と丁寧に説明しました。

08年のリーマン・ショックで受注残がなくなる。

07年に帰国し大阪工場の管理部長になりました。当時、過去最大規模の生産となった07年度は北米の経験を生かして乗り切りましたが、その翌年、リーマン・ショックが待ち受けていました。

「払った10%の頭金はいらない。すまないが全部キャンセルだ」。世界的な経済の打撃で、一夜にして800台規模の受注残が消えました。もっと大変だったのは、協力会社が集まる「みどり会」です。

みどり会は日本では調達額の75%を占める大事なパートナーです。「一社たりともつぶすな」。当時の野路国夫社長の号令で、当社が協力会社の設備を買い取ったりしたほか、雇用助成金を受け取れるように当社から専門家を派遣して支援しました。幸い、全ての企業が生き残ることができました。

あのころ
 2005年前後に米国の建機需要は急速に伸びた。当時の住宅着工件数は約200万戸と現在の1.7倍もあった。その後07年度にグローバル需要のピークが来た。同社のものづくりの強みや心構えを明文化した「コマツウェイ」もこの頃生まれ、今に受け継がれている。

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[日本経済新聞朝刊 2019年10月8日付]

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