辻仁成のカジダンへの道 家事が教えてくれること
家事や子育てをするようになって、僕の中で変化したものがある。一番大きく変化したのは幸せの価値観であろう。それまでは人生に勝利することばかり考えていた。作品がヒットすることや評価されることばかりをどこかで意識していたように思う。
今は、遠くを見ないようになった。遠くではなく、身近にこそ幸福が潜んでいることに気付くことができた。息子を中心とした日常にささやかな喜びが起きる度、僕は何ものにも代えられない幸せを覚えるようになった。
若い頃、野心に燃えていた時期には見向きもしなかったものじゃないか、と思う。今は、ごはんがおいしく炊けたり、息子が笑顔で学校から帰ってきたり、「おはよう」と言えば「おはよう」が返ってきたりするだけで幸せになる。
家の中をさわやかな風が吹き抜ける時、僕は掃除の手を休め、その風に感謝する。窓ガラスをきれいに拭き終わったところに差し込むすがすがしい光にさえ、心穏やかになることができた。着られなくなった息子の衣服を近所の教会に寄付する時、よくここまで育ってくれた、としみじみ喜びをかみしめることができた。
家のことをちゃんと隅々まで片付け終わった時の満足感こそ人生の醍醐味じゃないか、と思えるようになる。作品が評価されたり、ヒットしたりすることは神様がくれるギフトにすぎない。そこを目指すのもいいけれど、毎日の中で、自分のできる範囲で頑張ってつかんだ喜びこそ、地に足が着いた本当の幸福というものだろう、と思えるようになった。
子育ては自分がやらなければ誰もやってくれないものなのだ、と思えば背筋も伸びる。そんな貴重なことを気づかせてくれたのが、実は家事という修行なのである。
気のせいか、シングルファザーになってから自分が書く小説や詩が変化したような気もする。僕はこのような生活の中から言葉を紡ぐことができる今の自分の環境に感謝している。
負け惜しみじゃない。僕は今自分がいるこの世界をありがたいと思っている。誰がこのような一隅で輝く世界の貴さを気づかせてくれたのだろう、と考える。
仕事にしか興味がなかった僕が家事や子育てをやるようになり、少なからず幸せを覚えるようになれたのだから、これは奇跡と呼ぶに値するものじゃないか。息子が大学を卒業するまでにあと6、7年ほどかかる。僕の修行は続くのだ。
1959年生まれ。81年、ロックバンド「エコーズ」を結成。97年「海峡の光」で芥川賞。99年「白仏」の仏語版でフェミナ賞外国小説賞。映画監督としても活動する。パリ在住。
[日本経済新聞夕刊2019年7月30日付]
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