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長く勤務した横浜支店時代の同僚と(前から2列目左端が井上社長)

長く勤務した横浜支店時代の同僚と(前から2列目左端が井上社長)

清水建設の井上和幸社長(62)は、40代半ばで初めて東京本社勤務になった。

横浜市内の複数の現場を統括する仕事をしていた時、当時の上司に本社営業部への異動を通達されました。何か自分がやらかしてしまったのかと思いました。定年まで横浜で勤めるつもりだったからです。技術者の私とは縁遠いと思っていた営業部長となり、官公庁の担当になりました。

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異動した部には部下が10人いました。営業の手法もわからないので、とにかく霞が関の官庁に通い続けました。最初、役人の方々は名刺さえ渡してくれず、正直へこたれました。しばらく我慢していると、顔と名前を覚えてもらえ、仕事の相談も受けることができるようになりました。

技術職と営業職、社会人人生を2度楽しめる、と割り切ったのも良かったのかもしれません。自分が営業になった意味も徐々にわかってきました。発注する側の官公庁の専門的な技官に対応するには、技術のわかる人間が担当していた方がよい場面が多くなってきたからです。ただ、入札での同業他社との勝負は大変厳しかったですね。

2005年、新設されたPFI営業部の部長となる。

PFI(民間資金を活用した社会資本整備)という手法が出始めたころでした。当社も専門部署を立ち上げましたが、最初は失敗続き。発注者からの分厚い書類を読むのが大変でしたし、金融など専門知識をメンバーと勉強して準備する必要もありました。提案書作成に1億円をかけたこともありました。

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