関西弁で描くムラ社会のリアル 新人が相次ぎデビュー
関西を舞台にして閉鎖的な共同体を描く小説で、新人作家が相次いでデビューした。時代は昭和後期から平成。人間関係の濃い「ムラ社会」を関西弁を駆使しながら、現代に通じる空間としてつづっている。
現代のムラ、実体験から
「ムラという名の、平成の現代社会を書いた。旧来の共同体だという意識はない」。群像新人文学賞を受賞し、デビューした石倉真帆はそう語る。
受賞作「そこどけあほが通るさかい」の舞台は関西地方。主人公の「うち」は、悪態をつき続け家族をさいなむ祖母、影の薄い父、無力さに苦しむ母、うちを気にかける兄と暮らす。
住民の名字はほとんどが3つに収まる。進学や就職先など個人情報という概念はない。祖母はうちの受験校を執拗に批判し、成績の悪い女の子など生まれてこなければよかったと言い放つ。女性も学歴重視、父の威厳が失われた現代のムラ。「エピソードの3割は実体験」だと明かす。下書きから清書まで、すべて手書きだ。「作品にするつもりはなく、メモとして書き始めたら止まらなかった」
地縁や血縁に縛られる人間関係を起点にしたリアリズムは、中上健次らをほうふつさせる。「中上健次に比べたら、自分の書いた世界はサザエさんのようなもの」とさらり。一人称で語られる小説は、会話だけでなく地の文も関西弁だ。
例えば、祖母の仕打ちにあらがう主人公の内面描写はこんな調子。「はらわた煮えくり返ってんのにやっぱり演劇部入ろかな応援団でもいけるんちゃうやろかてなことも考えてた」。単に地方の現実をたどるのではなく、己の行動にツッコミを入れつつ、笑う視点が関西らしい。
「一度ムラを書き切り終わりにするつもりだったが、もっと突っ込んでみたい気持ちが生まれてきた」という。「主人公が19歳までのことだが、実際にはその先がある。現在進行形」
実家を出たことが書き上げる契機になったという本作。「都会的な関西」もいつか書く日が来るかもしれない。「ムラから逃げ出しても、都会がいやしてくれるわけではない」から。
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個人の抑圧 今に通じる
「完膚なきまでにやられる」「踏んだり蹴ったり」。三国美千子の新潮新人賞・三島賞受賞作「いかれころ」は、そんな意味を持つ。出身地、大阪・河内地方の方言だ。「南河内のおばちゃんの、無意識から出てくるユーモア。自分に対して使い、人に向けたら相当きつい言葉」と解説する。
舞台は昭和58年(1983年)の大阪南東部。旧家の一族を4歳の少女の視点で描く。本家に次々と親族が集まり、昼ご飯を食べる冒頭は、濃い人間関係の不穏さと牧歌的な雰囲気を併せ持つ。「今はもうない風景。記憶を文字にして刻みつけておきたかった」
「結納金一本やて」「釣合い(ツロク)が肝心やさかいな」……。河内弁で繰り出される女たちのおしゃべりで物語が進む。
一族の間では精神疾患者や婿養子らへの差別意識が当たり前のように存在する。「生きづらさは今もそんなに変わっていない。『いかれころ』の時代と何が進歩したのか」と指摘する。近代以降の個人主義に対して抑圧的だった地域共同体を、今に通じるものとして記した。
精神疾患のある叔母が縁談を拒否する場面がある。「社会から与えられた、女性の性的役割の拒否ともいえる。そういう女性のあり方があってもいいのではと思って書いた」
閉鎖的、差別的で序列ははっきりしているという共同体だが「『下』を否定することはない。うまく養って維持する」機能もあったと評価する。「自分は今、地縁血縁から離れたところで核家族で生活している。そちらの大変さもありますよね」
郷土への思いは深く、生まれる場所を自由に選べるとしても「南河内に生まれたい」と言う。「言葉は違っても人間だからどこも同じ。だったらやっぱり、南河内がいい」
(桂星子)
[日本経済新聞夕刊2019年7月16日付]
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