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私の課長時代

建機販売、沸き立つ中国市場でルール整備 日立建機社長 平野耕太郎氏(下)

2019/6/18付 日本経済新聞 朝刊

中国では野球で天津ライオンズのスポンサーになるなど企業の社会的責任(CSR)にも力をいれた(05年、右が本人)

■中国市場で代理店を行脚する。

2004年、上海の販売子会社に販売企画本部長として出向しました。中国市場の建設機械需要が急速に伸びた03年の翌年です。まず取り組んだのが代理店の販売ルールの作成。98年に1千台程度だった上海の販売会社の販売台数は03年に4千台に急拡大。当時のインフラ投資は過熱気味でした。建機の展示会には多くの購入者が札束を持って集まっていました。

ただ、買い手の中には昨日まで農家をしていたような人も交ざっていました。油圧ショベルの先につけるバケットを勝手に規定以上のサイズにつけ替える顧客もいました。日立ブランドを守るため、機械の使い方やメンテナンスの頻度、分割払いの方式などルールを作り、中国人の営業マンと客先を行脚しました。

■インフラ不足を実感する。

中国を歩いて驚いたのは、圧倒的に建設現場の建機が足りないことです。例えば道路工事。建機が1つの現場にとどまらず、粗く掘った先から移動し、その後5~6人が人手で現場を整えていました。

インフラも不十分。日本食もスターバックスもある上海から飛行機で1時間強の合肥工場の近くは、地下鉄がなく、街は大きいのですが車とバスと牛が行き交っていました。当時はトイレも水洗ではなく、互いの上半身が見える状態で横並びで用を足していました。

工場の従業員は朝、何十台ものバスでやってきてはお昼に温かいご飯をめいっぱい食べ、冬はお湯に限りがあるため事務職も工場でシャワーを浴びて帰ります。発展途上ながら、工場ではみんな「外資企業に勤めているぞ」と活気に満ち、プライドをもって働いていました。それは現地の代理店も一緒でした。

■中国に溶け込むため、社会貢献にも目を向けるようになった。

ビジネスが盛り上がる一方、もう少し社会活動にも目を向けるべきだと思うようになりました。そこで中国野球リーグ、天津ライオンズのスポンサーになりました。08年の北京五輪を目指して中国政府も力をいれていました。中国、日本など4カ国・地域が東京で試合するアジアシリーズでは天津ライオンズのメンバーも来日し、試合を盛り上げました。

04年、約30年ぶりに北京と上海で開催された大相撲の中国公演にも協賛しました。73年の公演も見たことがある代理店の人は「中国も変わったもんだ」としみじみ。男の裸を見てはいけない、と黒やグレーの人民服の男性ばかりだったのが、女性の観客が増え、客席はカラフルに。急速な都市部の変化をダイナミックに感じましたね。

あのころ
2008年の北京五輪開催に向け、中国国内の需要は03年に急伸したが、04年の政府による金融引き締めで急速に冷めた。反日デモもあったが「政冷経熱」の言葉どおり顧客は冷静だった。日立建機は当時、2割弱の販売シェアを獲得。中国市場で存在感を高めた。

[日本経済新聞朝刊 2019年6月18日付]

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