「今なら助成あり」 がん検診促すパンフで効果
国立がんセンター、ひな型を提案
多くのがんは早い段階で見つければ治る。早期発見が大切だが、ほとんどのがんの検診受診率は国が目標に掲げる50%に届かない状況が続く。「病院に行く時間がない」「面倒だ」という人、「もしがんが見つかったら怖い」とためらう人……。そんな背中を一押しするため、それぞれの理由に応じてアプローチする行動科学という医学とは本来は異分野の手法を活用する試みが始まっている。
東京都内に住む主婦の斉藤嘉子さん(56)は4年前に乳がんと診断された。夫の勤務先が家族向けに提供する人間ドックで異常が見つかり精密検査した。がんは1センチ未満と小さく、リンパ節への転移もなかった。
「幸い(乳房は残す)部分切除で済んだ」。現在は年に一度マンモグラフィーなどの検査を受ける傍ら、病院でボランティア活動を始めた。「親しい人にも自分ががんだと話せず、心の中の葛藤があった」。そんな自らの経験を生かし、患者の心の悩みを聴く。
胃がんや大腸がん、乳がんなど患者数が多い5つのがんについて検診が強く推奨されている。早期発見と進行後の発見では治療成績の差は極めて大きい。がん研究会有明病院の土田知宏・健診センター長は「早い段階で見つければ治るがんもステージ(病期)が進み自覚症状が出てからでは治しにくくなる」と説く。
しかし男性の肺がん検診で受診率が50%をわずかに超えるものの、胃がんや大腸がんでは40%台にとどまり、乳がん、子宮がんでも40%台前半にとどまる。
「社員に検診を促す企業が増えてはいる」という土田センター長は「誰でも自分は大丈夫と思いたい心情がある。意識を切り替えるのは難しい」と首を振る。
医療機関やがん患者の団体などがセミナーやイベントで検診の呼びかけに力を入れるが、決め手を欠く。そんな中、人間の行動法則を科学的に究明する行動科学や心理学的な手法を取り入れたアプローチが注目を集めている。
国立がん研究センターが工夫したのは受診をしていない人の気持ちに合わせたメッセージの発信だ。
例えば「検診に関心があるものの、がんが怖くて受けていない」という人には「早く見つければ治る」と不安を取り除くメッセージを前面に出す。「受けようと考えている人」には、すぐにでも行動につながるよう窓口の電話番号など具体的な情報を盛り込む。
同センターでは、検診を勧めるパンフレットやはがきに未受診者向けの受診案内のひな型をいくつか作成し、住民のがん検診の受診率向上に力を入れる自治体に提供している。
人が行動を選択する際のくせやバイアスを利用して望ましい行動を引き出す「ナッジ」という手法も使った。「ナッジ」とは「注意を引くためにひじでそっと突く」という英語。例えば「今なら1万円の助成がある」といった文言で「お得感」を醸し行動を促す。テレビショッピングに通ずるやり方だ。
同センターの溝田友里・健康増進科学研究室長は「これまで受診を勧める案内などは、検診の大切さを住民に理解させる教育的な意図が表に出ていた。新しい試みでは行動を促す環境をつくるよう心がけた」と説明する。
ひな型づくりには行動科学やマーケティングの専門家やデザイナーが参加。2015年度から無償提供を開始して17年度には89市町村がひな型を利用したパンフレットなどを127万人に送付した結果、多くの自治体で受診率が向上した。
住民から申し出があれば機を逃さず受診できる「受け皿」も用意しておく必要がある。大阪大学大学院の平井啓・准教授(人間科学研究科)は「患者と医療側では見えている世界が違う。すれ違いを少なくするうえで行動科学的な手法が有効だ」と話している。
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「がん=死」ではない
がんと診断されたら怖いと感じる人は多いだろう。しかし治療技術の進歩で「がん=死」という時代ではなくなっている。がんを一度でも経験したことがある人を「がんサバイバー」と呼ぶ。私自身、大腸がんと腎がんのサバイバーだ。がんを乗り越え、がんとともに歩む人が増えている。
超高齢化で2人に1人ががんになる時代だが、新薬の登場もあって、がんの5年生存率は60%を超える。がんで亡くなる人を減らすには予防と早期発見が最も効果的で合理的なアプローチだ。
予防では、がんの原因となるたばこや感染症への対策、食事や運動など生活習慣改善が大事だ。運動不足の解消によって大腸がんや乳がんになるリスクを下げることができる。
早期発見では国はがん検診の受診率50%を目標とするが未達だ。
早期発見すれば、多くのがんは治せる。胃がんが限られた範囲にとどまる早期のステージ1では、5年生存率は97.6%。転移があるなど進行がん(ステージ4)だと8%に下がる。大腸がんや乳がんなども同じような傾向だ。
私はがんのイメージを変え、予防と早期発見につながる検診の大切さを深めてもらおうと、昨年に「全国縦断 がんサバイバー支援ウォーク」を実行した。
福岡市の九州がんセンターから始まり札幌市の北海道がんセンターまで、約3500キロを断続的ながらひとりで歩き抜いた。訪問した各地ではがんサバイバーの人たちが出迎えてくれ、がんサバイバーへの支援などを話し合った。
がんに対する社会の見方を変え、がんサバイバーが変わらず働き活躍できる環境をつくっていく必要がある。それがサバイバーへの支援となると同時にがん検診に足をむけやすくし早期発見を促すことになる。
(編集委員 滝順一)
[日本経済新聞朝刊2019年4月22日付]
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