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決済アプリが脅かすプライバシー 「便利」の代償とは 慶応大学教授 坂井豊貴

2019/4/13付 日本経済新聞 朝刊

決済アプリが普及したことで現金を使う機会は格段に減っている=イラスト・よしおか じゅんいち

私とは誰であるか? このよく知られた問いかけから、ブルトンの小説『ナジャ』は始まる。とある格言によると、「私が誰と付き合いをもっているか」がその答えになるのだという。

初めてそれを読んだとき、私は一理あるとは思いつつも、どうにも拭えない違和感を覚えた。私が誰と付き合いをもとうが、私は私である。そのように外的に観察可能な情報だけで私を捉えるのは、内なる人間性を蔑(ないがし)ろにしているのではないか。

キャッシュレスをめぐる昨今の喧騒(けんそう)を見るとき、そのときの心もとない感覚が胸によみがえる。

昨年末、決済アプリ「PayPay」は、利用者に計100億円を還元するキャンペーンで話題をさらった。これに対抗する他社は、ポイントや割引などのキャンペーンで応酬した。先月「LINE Pay」と「メルペイ」は提携を発表、今後は互いのユーザーが互いの加盟店を使えるようになる。このように競争が激しく、展開がめまぐるしいことが、この市場を勝ち抜く重要性を物語っている。

■決済アプリ普及

決済アプリの提供者は、ユーザーが、いつどこで何を買ったかの情報を得られる。これに他のさまざまな個人情報が紐(ひも)づけられ、ユーザーは解析される。私とは誰であるか? それはお前の消費履歴と個人情報がかたどるものだ、というのがここでの答えになろう。岩田昭男著『キャッシュレス覇権戦争』(NHK出版新書、2019年)は、事業者間の競争から、情報管理の問題まで、さまざまな論点を整理して論じている。

李智慧著『チャイナ・イノベーション』(日経BP社、18年)は、キャッシュレス化が浸透した中国社会を概観する。そこでは人工知能が、消費履歴や個人情報を採点し、各人にスコアを付ける。スコアが高いと低金利でローンが組めたり、預け金なしでレンタルサービスを受けられたりする。「信用は富」なので、人々はスコアを上げようと躍起になる。

思うのだが、人間はそのような社会で生きるうちに、スコアを「人間の価値」のように扱い始めるのではなかろうか。入試の偏差値で、学校の価値を測るのと同じようにだ。数値は目に見えるが、価値は内心で感じるものだから、目には見えない。見えるものは他者に説明しやすいので、社会では影響力をもつ。

セオドア・M・ポーターの名著『数値と客観性』(藤垣裕子訳、みすず書房・13年)は人間が、いかに数値が数値だというだけで有難(ありがた)がってきたかを教える。信用のスコア自体は新しいものであっても、そうした数値に振り回されるのは昔から人間社会で観察されてきたことなのだ。

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