「たいやきくん」は大人向け? 誕生100年、童謡の歴史
口ずさめばどこか懐かしい気持ちになる童謡。2018年には誕生100年を迎え、記念企画が目白押しだ。変わらず歌い継がれてきたかに見える童謡だが、その時々で曲折があった。歩みを振り返ってみよう。
1918年(大正7年)、鈴木三重吉が手掛ける文芸雑誌「赤い鳥」が創刊した。古くから童歌や子守歌はあったが、明治期には当時の文部省主導で教訓的内容を織り交ぜた「唱歌」が作られ、学校で教えられていた。こうした唱歌へのアンチテーゼとして、新しい子供の歌を作ろうという運動が「赤い鳥」を中心に盛り上がっていった。
北原白秋や西条八十、山田耕筰……。「赤い鳥」創刊以降、多くの詩人や作曲家が作品を発表し「かなりや」「雨」など今も愛される歌が続々生まれた。日本童謡協会は「赤い鳥」創刊を童謡の誕生と位置づけている。
長年、歌い継がれてきた童謡だが、昔と今で歌詞が違う歌がある。
「汽車汽車ポッポポッポ……」。おなじみの「汽車ポッポ」だ。実は、1937年(昭和12年)の発表当時、タイトルが違っていた。その名も「兵隊さんの汽車」。現在、「僕らを乗せてシュッポシュッポ……」と歌うところは「兵隊さんを乗せてシュッポシュッポ……」だった。「万歳万歳万歳」と出征する兵士を見送る詞で、戦時中、盛んに歌われた。
しかし終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)からクレームが付く。NHKの依頼を受けた作詞者が自ら改め「兵隊さん」が「僕ら」に、「万歳」は「走れ」に変わった。
「ちょうちょう」も歌詞が変わった例だ。明治時代の歌詞は「さくらの花の さかゆる御代に」だったが、戦後になり「さくらの花の 花から花へ」に変更。ほかにも文語調の詞を口語調にして歌いやすくした例などがある。
歌詞の続きが話題となることも。「どんぐりころころ」では、泣いたまま終わるのはかわいそうとの思いから、3番以降の歌詞があちこちで作られた。仲良しのリスが迎えに来たり、母親が来たり。落語家の桂文枝さんは4番を作った。どじょうに会うためまた転がる、というオチだ。
子供が口ずさむ童謡。その定義を巡って論争になったことがある。火元は物品税だ。
1989年の消費税導入に伴い廃止された物品税は、生活必需品を対象外とし、嗜好品やぜいたく品に課していた税。歌謡曲など一般的なレコードが課税対象となる一方、童謡は非課税だった。
「およげ!たいやきくん」は大人向けの歌で、童謡ではない――。70年代半ば、国税当局は同曲に課税すべきだと主張した。当時の報道によると、レコード会社は童謡担当が制作したと反論。議論の末、結局「たいやきくん」は非課税となった。
その数年前に発売された「黒ネコのタンゴ」でも同様の議論が起き、東京国税局は童謡、他地域の国税局は歌謡曲と認定するなど対応が分かれた。「童謡の百年」の著書がある立教大学の井手口彰典准教授は「童謡を定義するのは難しい」と指摘する。
当初は唱歌に対抗する形で生まれた童謡も、昭和に入るとレコード会社による創作が活発になり、戦後はラジオやテレビ発の作品が注目を集めた。ラジオからは「みかんの花咲く丘」「ぞうさん」が生まれ、テレビからは「だんご3兄弟」が大ヒットした。
子供が口ずさむという意味ではアニメ・CMソングも存在感を増す。曲ができた時期も背景も詞もメロディーも多様で、どこまでが童謡なのか、線引きは悩ましい。
誕生から100年。日本童謡協会は記念誌「明日へ」を発行した。「赤い鳥」創刊日で、「童謡の日」とした7月1日にはコンサートを開く。歴史を振り返り、童心に返るのもいいかもしれない。
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ゆかりの地を巡る人も
童謡ゆかりの地を訪れる人が増えている。東京都荒川区の第二、第三日暮里小学校には「夕焼小焼」の記念碑・記念塔が建つ。作詞者が教師として赴任した学校だ。6月上旬に訪れると、繊維街巡りの途中という女性が「懐かしいね」と口ずさんでいた。こうした動きは「日本の原風景を訪ね、懐かしさに浸りたい気持ちの表れではないか」と井手口さんはみる。
作曲家で日本童謡協会事務局長を務める伊藤幹翁さんは「童謡は自然や家族への愛情を親子一緒に歌えるもの。これからも日本のふるさと、言葉の美しさを大切に伝え続けたい」と話す。今も新曲が生まれている童謡。次の100年はどんな道を歩んでいくのだろうか。
(河野俊)
[NIKKEIプラス1 2018年6月23日付]
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