ホンダと攻防、ヒット車生み東南アジア挽回
ヤマハ発動機社長 日高祥博氏(下)
フランスでは現地社員(右)につきっきりで調達管理のノウハウを教え込んだ(94年、左側が本人)
5年間のフランス勤務を終え、帰国する。
フランス時代は毎年、増収増益を確保しました。当初の目標達成のめどがついて日本に戻ると、会社の組織をどうするのか、という宿題が待っていました。
バイクには本格的な大型バイクとスクーターがあります。ビッグバイクは性能、通勤などに使うスクーターはコストが第一。価値が違う製品を同じ事業部でやっていていいのかという議論をしました。結果、ビッグバイクを扱うMC(モーターサイクル)とスクーターなどが軸のCV(コミュータービークル)の2事業部に分割しました。
CV事業は東南アジア諸国連合(ASEAN)市場で危機にさらされた。
事業を分割してわかったのがCV事業の危機です。通貨危機後に市場が冷え込んだことに加え、ライバルのホンダにシェアを奪われて大苦戦しました。ウソか本当かMC事業部から「CVは端を歩け」という声が上がったと聞きます。
危機のさなか、CV事業を担当することになります。当時、部長だった滝沢正博さん(現ヤマハ発動機顧問)がうみを出し切ろうと音頭を取り、会議を招集。CVの品質、営業、製造技術など部長10人近くに声をかけ、本社近くの醍醐荘(静岡県磐田市)の一室に午後6時から集まりました。
私は議事録を書く書記役でした。会議は2時間ぐらいで終わるかと思いきや議論が白熱。「何言っている、冗談じゃないぞ」と大声が上がり始め、慌てて食事を注文しました。何から手をつければいいのか。簡単には答えが出ず、翌週以降も会合を重ねました。