少年誌の付録、栄枯盛衰の歴史 昭和世代が熱中
まだ昭和だったころの書店。店頭には付録で膨れた少年誌や学年誌が山積みだった。子どもたちは付録を比較して雑誌を選んだ。そんな彼らは今、豪華付録が満載の、大人の男性向け雑誌の読者に成長している。
今日、書店の最も目立つ場所には、バッグや帽子、ライトなど雑貨品の付録がついた大人向け雑誌が山積みだ。山の前にたたずむ男性客は、見本として展示している付録を品定めし、雑誌を選ぶ。
記者(56)は彼らの姿を見ながら、小学3年生だった1970年を思い出す。当時、小学館の学年誌の大ファンだった。お目当ては組み立て付録で、「万博ジオラマ」や「月着陸船」を夢中で作った。
付録を手にしてから数カ月後、大阪市の日本万国博覧会で太陽の塔や月着陸船を見た。本物は付録よりずいぶんスマートだと感じたことを覚えている。それほど付録の印象は強烈だった。
少年誌の付録の歴史は古い。始まりは大正時代半ば(20年代)で、昭和に入ると講談社の「少年倶楽部」が軍艦三笠の組み立て付録で人気に。第2次世界大戦中は用紙不足で付録どころではなかったが、50年代になると「少年画報」(少年画報社)や「少年」(光文社)など月刊少年誌の間で付録競争が勃発した。
少年画報社社長の戸田利吉郎さん(72)は「付録には戦前からの組み立て付録と別冊マンガの2形態があった。組み立て付録は『少年』が力を入れ、カメラや幻灯機など金属部品を多用した豪華付録が人気だった」と話す。少年画報も距離計付き大望遠鏡や写真機などで対抗したが、50年代半ば、競争に冷水が浴びせられる。雑誌輸送を一手に担った国鉄(現JR)が黙っていなかったのだ。
「『少年』のふろく」(光文社)の著者、串間努さんの研究によれば、国鉄は雑誌に特別運賃規定を用意し、割引料金で輸送していた。しかし金属部品が増え、重くかさばることに業を煮やして規定を強化。付録の材料を「細針金20番線のもの15センチ以内」など細かく制限した。金属やガラスはほとんど使えなくなり、本物感は後退する。
「少年は組み立て付録を続けたが、少年画報は別冊マンガの付録を増やした」と戸田さんは語る。その典型が60年1月号だ。赤胴鈴之助などの別冊マンガ10冊と絵はがき30枚を本誌に挟み込むと、厚さ7センチの偉丈夫ぶり。発行部数75万部と大人気となった。
しかし栄光は意外に短かった。刺客は59年創刊の「少年マガジン」(講談社)など週刊マンガ誌だ。少年は68年、少年画報も71年に休刊。最後は付録もほとんど消えた。
そんななか、組み立て付録でひとり気を吐く存在があった。戦前から他の少年誌と一線を画していた、小学館の学年誌だ。「付録次第で売れ行きが大幅に変わった。アイデア段階から社長同席の会議で審査され、試作品の出来栄え、コストまで綿密に検討した」と学年誌の編集長を歴任した子ども文化研究家、野上暁さん(74)は振り返る。
70年前後、野上さんが着目したのはウルトラ怪獣、万博、アポロ計画など。「万博会場でジェットコースターを観察し、付録に生かせないか考えた」。学年誌は全高1メートルのアポロロケットなどを次々と付録化。73年1月号で「小学一年生」は128万部を記録する。全1年生の7割という偉業だった。
しかし時代は回る。子どもはコンピューターゲームに夢中になり、塾通いで多忙になった。小学館の学年誌は2010年代半ばに次々休刊になり、現在定期刊行しているのは「一年生」のみ。付録もプラスチック製が目玉だ。
今の子どもたちには、付録へのこだわりはあまりないのかもしれない。だが、付録好きの遺伝子は、月刊学年誌を知る最後の世代、30代以上に色濃く残っている。
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ブランド付録で部数増
今、大人向け雑誌の付録が注目されている。代表格は宝島社の「モノマックス」。付録を武器に、約16万部(17年)まで部数を伸ばした。
毎号、コーチやハンティング・ワールドなど有名ブランドと共同開発した財布や大小バッグなど実用雑貨がつく。柚木昌久編集長(42)は「付録は雑誌コンテンツの大切な一部」と話す。
読者の中核は学習誌の付録を知る30~40代で、50代も多い。「自分たち世代に合うようクオリティーを上げ、従来とは違う付録の文化を作っている」と意気軒高だ。付録で育った世代が、作り手や読者として、新しい付録文化をけん引している。
(礒哲司)
[NIKKEIプラス1 2018年6月2日付]
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