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出張で訪れたチリで、現地の子どもたちと(97年1月、左が本人)

出張で訪れたチリで、現地の子どもたちと(97年1月、左が本人)

1996年夏、日本郵船の内藤忠顕社長(62)は、赤字部門の課長として奮闘した。

他の部署では営業と、収支管理などの担当が分かれていました。しかし、私が担当する中南米地域は小さいチームで、1人が全ての業務を取り仕切っていました。一方、少人数で収支などが全て見えるため、とてもやりがいがあるとも感じていました。

90年代後半、中国など新興国経済の急成長を受け、新興国同士を直接つなぐ航路の新設を思いつく。

「もう日本の荷物だけを運ぶ時代ではない」と気付き、急増するアジアの荷物を取り扱うことにしました。最初に設けたのが中国と中南米を結ぶ航路。その後、東南アジアと中南米を結ぶサービスも始めようとしましたが、97年の通貨危機で東南アジア経済が失速してしまいました。

目先の不況にもかかわらず、中長期では東南アジアの貨物輸送は成長すると思い、航路開設の稟議(りんぎ)書を起案しました。私自身、会社から「慎重にやるべきだ」とクギを刺されると思っていました。

返ってきた稟議書には当時の常務が手書きで「アジアの低迷は長引かない。健闘を祈る」というメッセージが添えられていました。こうして始まった東南アジアの事業は最初こそ赤字でしたが、すぐに利益を出すようになりました。

提携していたチリの海運会社と激しい交渉もした。

ラテン系の人たちは優秀で駆け引き上手でした。Aを取ろうとすると、まずはより難しいBやCが欲しいと言ってくる。こっちが「それは困る」と返すと、「わかった。じゃあAで譲ってやる」と落としてくる。日本人とは異なる交渉術を学びました。

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