帰国早々「チーム解散」の脅し 中南米航路存続へ奔走
日本郵船社長 内藤忠顕氏(上)
日本郵船の子会社、郵船クルーズが所有・運航しているクルーズ客船「飛鳥II」=PIXTA
日本郵船の内藤忠顕社長(62)は1980年に自動車船担当となる。
自動車船の担当として、最初は中南米や中近東向けを受け持ちました。同地域への自動車輸出が伸びた時代で、船に積み込むスペースが圧倒的に不足しました。営業から戻ると、机の上に「折り返し電話を」と書かれたメモが30枚くらい積まれていたことも。どの船も満載で、お客さんを怒らせずに次の船にどう回すかを常に考えていました。
自社の保有船に加え、船主から借りて運航する船隊の管理と、日々どのようにして車を積むかという配船を自分で全て決めていた時期がありました。今はコンピューターを使って決めるので楽になりましたが、当時は100隻程度の船の仕様を全部頭に入れて、3カ月先までどの船に何をどのくらい積むのかを決めていました。夢にまで配船表が出てくる始末で、妻に「寝言で配船のことを話している」と心配されました。
96年6月に定期船部門の中南米西岸チームの課長に就いた。
ないとう・ただあき 78年(昭53年)一橋大経卒、日本郵船入社。08年取締役常務経営委員、13年副社長。15年から現職。愛知県出身。
ハンブルクで現地法人を無事に立ち上げて初代社長を2年間務めた後、意気揚々と帰国しました。
しかし、初めて出席した課長級会議の席上、石川浩副会長(当時)から「おまえのところは赤字ばっかり。もう航路もやめてチームも解散したらいいんじゃないの」と言われました。「そんなこと言わず、1年くらいやらせてくださいよ」と懇願しました。いきなりチームの解体を持ち出されてびっくりしましたが、今振り返ると本音半分、激励半分だったと思いますね。