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三井物産社長の安永竜夫氏(2017年11月)

三井物産社長の安永竜夫氏(2017年11月)

三井物産の安永竜夫社長(57)は1993年、32歳の時に世界銀行に出向した。

当社がパキスタンでアジア初の独立系発電事業者(IPP)を手がけた際、契約の一部を世銀に保証してもらいました。その縁で民間投資を支援する仕組み作りに協力してほしいという話になり、ヒューストンに駐在中の私の派遣が決まりました。世銀にどのような貢献ができるかといった試験を受けました。

試験に受かり、4月に出向したら、すぐに1カ月間、ルーマニアに出張でした。ベルリンの壁崩壊から3年後のことです。旧東側諸国は共産主義から資本主義への移行期で、世銀に加盟して外資導入の仕組みを整えようとしていました。激変するルーマニアの環境も過酷でしたが、隣国モルドバでは冬にお湯が出ないこともありました。

世銀では多国籍の仲間と一緒に働いた。

やすなが・たつお 83年(昭58年)東大工卒、三井物産入社。13年執行役員、32人抜きという異例の抜てきで15年から現職。愛媛県出身。

やすなが・たつお 83年(昭58年)東大工卒、三井物産入社。13年執行役員、32人抜きという異例の抜てきで15年から現職。愛媛県出身。

出向した時の上司はアメリカ人の女性。同僚も半分は女性だった。インド人やフランス人、トルコ人などまさに多国籍軍でした。スリランカの案件で組んだのはインド人女性で妊娠中でした。産休を取られたのですが、1カ月で復帰されました。この仕事は私の仕事で自らが仕上げるんだという気概とともに、職場や家庭に復帰を後押しする雰囲気も感じましたね。

出向中は三井物産がなんていい会社かと思いました。困ったときに会社のどこかの部署をノックすれば、色々な知恵やサポートを得られます。世銀には仲間もいなければ、頼れるところもありませんでした。いかに社内外に自分のやりたいことに共感して一緒に仕事をしてくれる人を作ることが大事かということを痛感しました。

出向から2年で帰任命令が出る。

上司からは在任が2年だと世銀があなたを教育しただけになると怒られました。世銀の仕事はものすごく裏方です。世銀で学んだことを生かし、三井物産の中で投資案件を通じて国造りを直接やっていきたいという思いが湧きました。

世銀の借入国のうち借りた金額より拠出金のほうが増えたのは日本だけです。戦後の経済復興について議論するたびに日本を背負った気持ちになり、日本をより意識するようにもなりました。世銀ではたいしたことはできませんでしたが、入社10年で多国籍な人材と過酷な環境という異文化体験を身をもって経験したことでどこにいっても大丈夫だという自信がつきました。

あのころ
 1990年代は国際情勢の激変から、海外でのエネルギープロジェクトで曲折があった。90年には主導したイラン・ジャパン石油化学(IJPC)が戦争の影響で損失を計上して清算するも、ロシアではサハリン2の石油・天然ガスの開発契約を締結。事業拡大につなげた。
[日本経済新聞朝刊2018年3月20日付]

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