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変わる被災地 写真家が記録 寄り添い、体験伝える

2018/3/12付 日本経済新聞 夕刊

福島県富岡町の宝泉寺の庭。2014年は桜が満開だった(土田ヒロミ「フクシマ」より)

東日本大震災から7年。津波で流された街には新しい建物が立ち並び、原発事故のあった地域では除染作業が進む。写真家たちは、さまざまな思いで刻々と変わる人や街を記録している。

かつては桜の名所として知られた福島県富岡町の宝泉寺。写真家の土田ヒロミが2014年春に訪ねたとき、桜は地面の花々と競うように咲き誇っていた。しかし1年後、地上の花はほとんど消え、遠方から来たという見物客が除染服に身を包み、満開にはほど遠い桜を見上げていた。

「1年でこんなにも変わるのか」。土田は驚いてシャッターを切ったという。震災が起きた11年春から17年秋まで、撮影のために福島県を訪れた回数は120回ほど。撮りためた5万枚から190点を収録した写真集「フクシマ」(みすず書房)を1月刊行した。

■フクシマと対話

40年にわたり広島の被爆者を撮り続けた土田にとって、原発事故後の福島は避けて通れないテーマだった。何を撮るべきか分からず帰宅困難区域の周辺を訪ね歩くうち、まぶしいほどの新緑を目にする。「これほどの美しい風景から人々が一方的に退去させられた」(土田)ことがやるせなかった。余計なお世話にすぎないと葛藤しつつ「フクシマと対話するつもりで自然を撮る」と決めた。

2015年には除染作業で様変わりした(土田ヒロミ「フクシマ」より)

急激な変化を感じ始めたのは13年ころだ。除染のため大地が厚く削られ、新しい土が敷き詰められる。宝泉寺の地上の花が消えたのもこのためだ。切り崩された山は形を変え、各所に除染廃棄物を詰めた黒い袋が積み上がる。写真を見比べると、福島に起きている変化が浮かび上がった。

岩根愛は、震災前の06年からハワイの日系文化、特に日本から伝わった盆踊りを撮っていた。かの地の盆踊りで最も盛り上がるのは「フクシマオンド」。原曲は、福島県相馬地方の盆唄だ。そこで福島とハワイの太鼓団体の交流を橋渡しし、13年からは太鼓団体の一つがある福島県三春町を拠点に、帰宅困難区域の撮影を始めた。

使うのはかつてハワイで日系移民の大家族を写すのに使われた古いパノラマカメラだ。福島の被災者とハワイの日系移民。故郷を離れた理由は全く違うが「パノラマカメラが時を超えて何かをつないでくれるような気がした」(岩根)。

■生活を追体験

重さ20キロに及ぶ機材を担ぎ、故郷から避難した人々とともに、彼らが暮らしていた場所を幅2メートルほどのパノラマ写真に収めている。初めてのデートで訪れたバラ園、パノラマカメラを直してくれた職人が働いていた工場――。避難者の話を聞きながら、今は誰も住んでいない場所を記録する。写真が、被災者の生活を追体験し、失ったものを伝える機会になればと願う。

パノラマカメラで撮影した岩根愛の作品(写真奥)は、2月に福島県猪苗代町で創作舞踊とともに展示された

「自分には被災地を撮る責任があった」と語るのは、岩手県盛岡市出身の大島洋だ。津波に襲われた三陸海岸周辺では江戸後期に「三閉伊一揆」があった。大島はその跡地を若い頃に撮影で巡り、その後も断続的に通い続けていた。

とはいえ、津波などの被害の大きさだけに焦点を当てた写真は嫌だった。何ができるのか思い悩むうち、鬱病を発症した。それでも被災地に行くことはやめず、かつて自分が撮った場所を中心に訪ね歩いている。15年に1度、展覧会を開いたが「今後、作品を発表するかどうかは震災から10年くらいたったときに考えたい」と話す。

岩手県陸前高田市出身の畠山直哉も、継続的に被災地を撮り続けている。近年は被災地出身の作家として発言を求められる機会も増えた。「できるだけ被災地と時間を共有することが、自分にとって被災地を撮る意味かもしれない」としつつ、今後も冷静に「自分の考えを整理していきたい」という。

(文化部 岩本文枝)

[日本経済新聞夕刊2018年3月12日付]

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