小説の舞台は上海租界 様々な民族描き、スケール豊か
1930~40年代の上海を描いた長編小説が相次いで登場している。租界(外国人居住地)があり、様々な民族が暮らした「魔都」を舞台に、スケールの大きな物語が生まれている。
「以前から上海を舞台にした小説を書きたいと思っていた。中でも、第2次上海事変が起きて日中戦争が本格化する1937年から41年までの4年間に興味があった。この時期の上海を日本側から描いた小説は見当たらなかったので、面白いのではと感じた」
日本人警官の芹沢を主人公とする「名誉と恍惚(こうこつ)」(新潮社)を3月に刊行した作家で詩人の松浦寿輝氏はそう振り返る。芹沢は陸軍参謀本部の嘉山少佐に頼まれ、秘密結社・青幇(チンパン)の蕭炎彬(ショーイーピン)に引き合わせたことで、警察を追われる。祖国に捨てられた男の苦闘を描いた同作は、今年の谷崎潤一郎賞とBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した。
芥川賞作家であり、純文学作品で知られる松浦氏だが、今回はエンターテインメント性も追求した。執筆では「上海の日常生活のディティールをいかに描くかに苦労した」という。「資料に当たっても書いてないので、精いっぱい想像力を働かせた」
国際色豊かな人物
芹沢の知り合いの中国人時計店主・馮(フォン)篤生(ドスァン)、その姪(めい)で蕭の第3夫人・美雨(メイユ)、ロシア人青年アナトリーら登場人物が国際色豊かなのは上海ゆえだろう。
14年刊行の「明治の表象空間」では政治、文学など明治の言説を横断的に読み解いた。「そこから日本が近代的な国民国家へ向かう過程が見えた。その後、帝国主義戦争に参加、1945年の敗戦を迎えるわけだが、今回はどこで間違えたかを探りたいとの思いもあった」と松浦氏は話す。
作家の上田早夕里氏は上海租界にかつて実在した上海自然科学研究所に着目、その研究員を主人公とする長編小説「破滅の王」(双葉社)を上梓(じょうし)したばかり。舞台は日本軍に占領され、かつての輝きを失った上海。主人公の宮本は日本総領事館から呼び出され、治療法のない細菌兵器の調査を依頼される。
「小説に登場させた新城新蔵所長は実在の人物で、実際に中国人研究者と友好的な関係を結んでいたらしい。日本の敗戦で上海自然科学研究所の資料が中国側に接収されたこともあり、その存在はあまり知られていないが、忘れ去られてしまうのは惜しいと思った」
虚実織り交ぜ展開
小説で細菌兵器を生みだすのは製薬会社の研究所に所属する元軍医。「正しいことをしていると思って、細菌兵器を作ったり、人体実験をしたりするのが怖いところ。フィクションだが、起こりえたかもしれない歴史を書いたつもりなので、現在の問題を考える上でも参考になればうれしい」と上田氏は期待する。
昨年12月に小説「上海物語」(未知谷)を出版した作家で評論家の小中陽太郎氏。「子供のころに父の転勤で上海に渡り、租界で暮らした。その経験を書きたいと思ったのが執筆のきっかけの一つ」と語る。小説は40年、6歳の主人公が船で上海に向かう途中、煙突を描いた絵が原因でスパイ容疑をかけられる場面から始まる。さらにゾルゲや尾崎秀実らのスパイ活動が描かれ、物語は虚実を織り交ぜて展開する。
「日本ペンクラブの役員を務めたとき、会長は尾崎秀実の弟で文芸評論家の尾崎秀樹だった。それもあってゾルゲ事件には関心があった」と小中氏。
ほかにも、太平洋戦争開戦が近づく時期を舞台にした「上海殺人人形(ドール)」(獅子宮敏彦著、原書房)も4月に出版された。
上海を舞台にした小説やエッセーは、村松梢風「魔都」、横光利一「上海」など、租界があった時代にも書かれている。戦後には、英国の作家、J・G・バラード「太陽の帝国」、今年のノーベル文学賞を受賞するカズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」などが生まれた。
「複数の民族が暮らした上海はグローバル化を先取りしていた。近年再び注目される背景には、『国民国家』の概念が揺れていることがあるのではないか」と小中氏は指摘する。
(編集委員 中野稔)
[日本経済新聞夕刊2017年11月27日付]
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