大林監督、厭戦映画『花筐』が完成 「がんのおかげ」
末期がんと闘いながら40年来の念願の映画『花筐』を撮った大林宣彦監督(79)は、がん宣告が「うれしかった」という。戦争に青春を奪われた父と檀一雄の「断念と覚悟」に近づいたからだ。
死の影に彩られた耽美(たんび)的な青春を描く檀一雄の初期小説『花筐(はながたみ)』。刊行された1937年、檀は日中戦争で召集された。大林は77年に商業映画に進出する際、まず『花筐』の映画化を構想し、脚本も書いていた。
唐津にあったもの
「能古島(福岡市)で檀さんに会いました。肺がんで『火宅の人』を口述筆記で仕上げていて『そんな昔の小説を今どき映画に。うれしいです』とおっしゃった。小説には『架空の町』とあるので『どこか参考になる町はありますか』と聞いたら、檀さんは突然キリッとまじめな顔で『唐津に行ってごらんなさい』と」
「すぐ行きましたが、肝心の学校もなく、霧深き断崖もない。なぜこの町を推薦なさったのか謎でした」
結局、デビュー作は『HOUSE/ハウス』に。家が女の子を食べるホラーだが、あの家の女主人も戦争で恋人を亡くしていた。
「僕はもともと戦争体験があったから映画をやっているんだなと、今になって気づいた。50年前から同じです。ただ非常に戦争が切実に迫ってきて、僕の映画がリアリティーをもってきた。『花筐』が真実味をもつ、不幸な時代になった」
唐津再訪が契機だった。
「唐津のおくんちは町人の祭。町人が山を曳き、侍は交通整理をした。そこには権力に負けない庶民の知恵がある。檀さんは旧制高校で政治的事件に連座して停学になり、唐津の町をさまよった。自由に生きたい、戦争に殺されたくないという素直な心で『花筐』を構想したらしい。唐津にあるのは風景でなく精神。その象徴がおくんちだった」
『花筐』を撮ることへの「おびえ」もあった。檀と同世代の大林の父は軍医として出征し、博士の夢を捨て、開業医として生きた。
「父の世代には断念と覚悟があり、その中で生きてきた。父は僕に8ミリを譲り、檀さんは『花筐』を書くことで、何かを残してくれた。その何か、つまり断念と覚悟にひかれているけれど、その断念と覚悟が後続世代の僕たちにあるのか」
「檀さんと同じだ」
昨年8月の撮影入りの前日、手術もできない末期の肺がんと診断された。
「宣告を聞いた瞬間、体がフォーっと温まってね。すごくうれしかった。ああ、檀さんと同じだと思った。口述筆記で書いている檀さんの姿がパーンと浮かんで、これで映画を作れる、同じ痛みをもてたと思った」
余命3カ月の宣告を受けスタッフに撮影現場を委ね、東京で検査入院。3週間後、唐津に戻り、治療を受けながら現場に立った。
「がんになってうれしかったと言ったら、先生は『それです』と。アメリカの調査によると、楽観的な人間ほど薬は効くそうです。それが現代の医学なんです」
「医学も政治も経済も映画もみな仁術だけど、その仁術が失われて、世の中がおかしくなった。データ社会になって、データによって必要以上に落ち込む人がいる。社会が戦争という一番の犯罪を引き寄せる」
『花筐』は反戦映画でなく「厭戦(えんせん)映画」だという。
「戦争なんて2度と嫌だ。広島も真珠湾も嫌だ。原爆で親しい人を失い、軍国少年だった罪深さも実感している。戦争を知る僕たちは言い残さないといけない」
「映画ではこの世にないものを見せたい。その驚きと衝撃が新しい世界を発見する。平和はこの世にないでしょう? ないけど素晴らしい、美しい。そう思ってくれれば、自分たちが平和を作らなきゃということにつながるんじゃないか」
次回作の準備も始めた。 「がんのおかげ、をもっと生かしてやらないとね」
(編集委員 古賀重樹)
[日本経済新聞夕刊2017年11月14日付]
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