大戦で破壊 沖縄の文化財、復元進む 最新技術を駆使
戦争で首里城など多くの文化財を失った沖縄県。戦後70余年がたつ今も、復元された文化財は一部だ。そんな中、最新技術を使ってかつての姿を取り戻すプロジェクトが進んでいる。
「玉陵石獅子」は、ユーモラスな表情や三段腹などが特徴の獅子の石彫。16世紀初頭に琉球独自の様式で作られ、首里城そばにある玉陵(王の陵墓)を見守るように3体が設置されている。しかし、第2次大戦末期の沖縄戦で、うち1体の獅子が抱えていた子獅子が破損し、長くそのままになっていた。
沖縄県立博物館・美術館(那覇市)の依頼で、彫刻家の浜元朝和氏がこの石彫の複製に取り組んでいる。同館が所有する樹脂製のレプリカや、戦前の写真を参考にしながら、現存する像と同じように、全体が滑らかにつながるよう石を彫る。こうした技術は琉球の伝統的な彫刻に詳しい同氏ならではだ。
「彫刻など多くの分野で琉球文化の担い手が減っている」と同館の与那嶺一子主幹学芸員は語る。沖縄では大半の文化財が戦争で破壊された。当時を知る人や伝統工芸品の後継者が減り、復元は今後、一層難しくなるという。
壊さず素材調査
危機感を強めた県は2015年度に「琉球王国文化遺産集積・再興事業」を始めた。背景にはCTスキャンや物を壊さずに顔料や素材を調べられる分析技術の向上で、文化財の組成データが明らかになってきたこともある。石彫の他に絵画、木彫、漆芸、染織、陶芸、金工、三線の8分野計65件の復元を県内外の工房や専門機関に委託している。
その一つ、「御後(おご)絵」と呼ばれる琉球国王の肖像画を担当するのは東京芸術大学の保存修復日本画研究室だ。15世紀から19世紀まで歴代の王を描いた御後絵はかつて琉球王家の尚氏の邸宅に保管されていたが、沖縄戦のさなかに焼失した。
残っているのは、戦前に沖縄の文化財を調査した鎌倉芳太郎氏が撮影したモノクロ写真だけでカラーの記録はない。色鮮やかだった肖像画を復元するため、東京芸大は考えられる色のパターンを幾通りも試し、デジタルカメラで撮影して古写真のように加工。色の濃度や明暗を鎌倉氏の写真と比べて、元の色調の再現を試みている。その上で琉球の歴史に詳しい専門家から衣装の色や文様について意見を聞き、細部を調整していく。
「近年になってデジタルデータで分析できるようになった」(東京芸大准教授の荒井経氏)が、彩色は手作業のため、19人いる王のうち完成したのはまだ2人だ。
こうした取り組みは建築でも進む。臨済宗の首里円覚寺(那覇市)。戦前には総門、三門、仏殿など9件が旧国宝に指定されていたが、戦災で失われた。これまで総門と三門に続く橋が復元され、2019年から三門の復元工事が始まる。
痕跡、残す動きも
沖縄にも鉄道があったことを伝えるのは与那原(よなばる)駅旧駅舎(与那原町)だ。大正期から終戦まで人や物資を運んだ軽便鉄道は那覇~与那原間を中心に北は嘉手納、南は糸満までをつないだが、沖縄戦で線路や駅舎が破壊された。14年に昔のままの白いコンクリート造りの駅が完成し、現在は交通資料館として軽便鉄道の歴史を伝える。
沖縄戦の傷痕を、あえて残す動きもある。首里城の麓にある首里教会(那覇市)は、この辺りでほぼ唯一、戦火をくぐり抜けた建物だったが、損傷が激しく、1980年代に取り壊された。教会は今年、この「旧会堂塔屋」を復元。建物は真新しいが、上に立つ十字架には銃弾の跡が残る。戦災に遭った当時の姿を再現したのだ。「戦争の記憶を忘れないように」(竹花和成牧師)との意図だ。
琉球文化財を長く研究してきた宮城篤正氏は「戦争で沖縄の文化財はほとんど何も残らなかった。文化財の復元には鎌倉先生らが撮った古写真が頼り」と説明。自身も学生の頃から首里城守礼門などの復元に携わってきた立場から「琉球王国時代の記憶を残すためにも、首里城周辺をはじめ当時の状況を面として復元することは急務だ」と話す。
(文化部 村上由樹)
[日本経済新聞夕刊2017年11月6日付]
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