係長でも「課長」で営業 一念発起しLSIで大ヒット
旭化成社長 小堀秀毅氏(上)
旭化成の小堀秀毅社長は、世の中にないモノを生み出したいと志し、製造業に就職した。
新入社員は必ず発祥の地、宮崎県延岡市で研修を受けますが、石油ショック後の不況で延岡はリストラのまっただ中。そんな現場は見せられないと別の場所に変更になりました。延岡で研修がなかったのは後にも先にも私たちだけです。
最初の配属先は耐熱性などに優れた高機能樹脂、変性PPE(ポリフェニレンエーテル)の営業です。OA機器や自動車部品用の材料として、粒状の変性PPEが詰まった5キログラムの袋を両手に抱えて売り歩きました。
1985年、新規事業の営業を任された。米社と合弁で立ち上げた大規模集積回路(LSI)だ。
こぼり・ひでき 1978年(昭53年)神戸大経営卒、旭化成工業(現旭化成)入社。12年取締役常務執行役員、16年から現職。石川県出身。
営業は私だけ。半導体の知識も無く、社長は外国人でした。顧客の大手電機メーカーを訪問しても「旭化成が半導体?」といぶかしがられるばかり。86年に係長になりましたが、渡された名刺の肩書は「課長」でした。会社としては相手と対等に渡り合うため、一計を案じてくれたようですが、結構重圧でしたね。
92年に課長に就きましたが、LSI事業は赤字のまま。会社の方針が揺れていました。「しっかり針路を示してもらわないと社員の熱意をそぐ」と社内報に書いたことを覚えています。
旭化成のLSIを一躍有名にしたプロジェクトに挑んだ。
閉塞感を打破するために組織をどう動かすか。それを考えた時、率先垂範、自ら行動して後ろ姿を見せることが大事と一念発起しました。94年「D500」と銘打ったプロジェクトを立ち上げました。
「マルチメディア」時代を迎え、パソコンで音楽を聴いたり、動画を楽しんだりする動きが広がっていました。「デジタルからアナログに変換するLSI『DAコンバーター』は売れる」と予測し、設計から生産まで膝詰めで協力を働きかけました。顧客の開発現場にも何度も通い詰め、ニーズと合っていると確信しました。
すると組織全体が「これは行けそうだ」と大きなうねりになりました。当初、月50万個売る計画で始まり、2~3年後には200万個以上売れました。当時、大ヒットした家庭用ゲーム機の第1号機にも当社のLSIが採用されました。
D500は半分、勢いに任せてぶち上げましたが、リーダーは掲げた目標を有言実行しないと組織を動かすことはできません。
旭化成が大規模集積回路(LSI)事業を始めた1980年代半ばごろから日本の電機メーカーは半導体市場を独占していく。旭化成は汎用品ではなく、小型のカスタムLSIに特化。家庭用ゲーム機の登場などデジタル機器市場が変遷するのに対応し収益を拡大していった。