前藩主は多重人格 宮部みゆきの新作、時代小説に新風
宮部みゆきが作家デビュー30周年を迎え、長編時代小説「この世の春」を刊行する。現代ミステリーの要素を持ち込むことで、時代小説に新風を吹き込んでいる。
10年ほど前に笠谷和比古著「主君『押込(おしこめ)』の構造」という武家社会の研究書を読んだことが、31日に刊行される「この世の春」(上下巻、新潮社)を書いたきっかけという。
「家臣たちが主君を強制隠居させる『押込』という慣行に興味を持った。私は歴史作家ではないので、史実を題材とするのではなくミステリーの枠組みの中で小説にしたいと考えました」。時代考証は大切にしながら、自由に想像の翼を広げたいと考えている。
江戸中期、下野国(現・栃木県)北見藩の6代藩主「重興(しげおき)」は押込により、従兄(いとこ)に藩主の座を譲り、別邸「五香苑」の座敷牢(ざしきろう)で暮らし始める。美貌の前藩主の世話係となった元作事方組頭の娘「多紀」は奇妙な声を耳にする。
個性詰まった新作
重興は自身の中に別の人格を抱える解離性同一性障害という設定で、そこには少年期のつらい記憶が影響している。「多重人格などの設定は現代ミステリーでは当たり前でも、時代小説ではあまり書かれていない。今作では現代ミステリーの要素を時代物に生かしたいと思いました。実際にやってみると、まず原稿を読んだ編集者が驚いてくれたのがうれしかった」
もっとも、舞台は科学的思考が広まる前の江戸期。「完全な合理主義だけでは人々は納得しないのではないかと思い、呪術も取り入れました」。多紀の母親は人の霊魂を操って意思を通じ合わせる技「御霊繰(みたまくり)」を受け継いできた村の出身。一方、藩政に遺恨を持つ陰の勢力も怪しげな呪術を使う。こうしたサイコホラーの要素も本作の魅力だ。
「ホラーの恐怖、ミステリーの謎、そして両方に共通する笑い。この3つがあれば物語を豊かに組み立てることができます。そこでは時代物と現代物の違いはあまりない。それに加えて、この小説では子供や老人も活躍するし、ホームドラマや恋愛の要素も含まれる。30周年記念にふさわしく、私の個性が詰まった作品になった気がします」
猟奇的な連続殺人を描いた2001年刊行の「模倣犯」を書いた後は、高い世評とは裏腹に、現代ミステリーを書くのが「しんどくなった」という。小説で描いたような不可解な事件が現実で起きたためだ。
しかし「ミステリーを書くのはこの世の悪を描くことだから、逃げ腰にならず向き合いたい」と考えるようになった。今後も「誰か Somebody」(03年)に始まる「杉村三郎」を探偵役とする現代ミステリーのシリーズは書き継いでいく。
初の戦国小説も
時代物のライフワークは、08年刊行の「おそろし」に始まる「三島屋変調百物語」シリーズ。小説は全体で99話を予定しており、現在新聞連載している分で全体の4分の1ほどに達する見通しだ。
「昔のカレンダーを見ると、予定がビッシリ書き込まれていてびっくりする。50代半ばとなった今は体力的にとても同じようなことはできない。一本一本、100%楽しめるものを書いていく」と話す。
その一方で「20世紀中はまだ修業中の身だと思っていたので、30周年といってもやっと第一コーナーを回ったという感じもある。私は小説が好きで、こんなものが書きたいと思って作家になった『ファンライター』。今も(ファンタジーの)上橋菜穂子さん、(純文学の)津村記久子さんらの作品から刺激を受けている」とも。
今後も「新しいことに挑みたい」と語る。来年には初めての戦国小説を手掛ける予定だという。
(編集委員 中野稔)
[日本経済新聞夕刊2017年8月22日付]
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