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1998年に中国・南京で開いた「スーパードライ」の発売イベントで

人材開発室課長を経て、1996年に経営計画課長に就いた。

94年には中国のビール市場に本格的に打って出ました。当時の瀬戸雄三社長は中国事業に並々ならぬ熱意を持っていました。しかし、約40人いた取締役の間では反対意見が目立ちました。経営会議に上がる中国案件の資料作成を手伝っていましたが、ことごとく却下される目に遭いました。

ある日、瀬戸社長から中国室を立ち上げるよう命じられました。肝心の中国室長に誰が就くのか。人選に3日くらい悩みました。結局、妙案が浮かばず。自ら願い出て経営計画課長と兼務することにしました。

中国室長に就いた97年から2年間、中国への渡航が50回を超えました。役員らの中国事業への懸念を解こうと現地に行くこともありました。帰国するや否や空港内の公衆電話機にパソコンをつなぎ、報告書を送ったものでした。少しでも早く重圧から解放されたかったからです。ストレスにより顔の色がまだら模様になるほどでした。

97年末には青島ビールと広東省深圳で合弁工場をつくると合意した。

合弁で赤字は絶対、許されません。最初から黒字化する目標を掲げ、稼働率100%を目指しました。新工場では「スーパードライ」と「青島ビール」を造ります。しかし、青島と当社を含めた日本連合が出資比率を基に生産数量を半々にしたら、当時の当社の販売力ではスーパードライを売り切るのは困難でした。そこでビールの生産割合を青島が95%、当社が5%にするよう提案しました。

当社の経営会議では「どこの会社の人間だ」と非難されました。でも赤字をこれ以上出すと中国事業がだめになります。100%の稼働率にして利益を確保し、配当金で投資を回収する会社にする。決死の覚悟でそう説得しました。

工事が進まず、計画より完成が遅れる恐れも出てきていました。そんな中、青島ビールが中国流で工事を進めてもいいかと提案。任せると作業の遅れに対し工事業者に重い罰金を科しました。すると工事業者は作業の効率化に知恵を絞るようになり、工事は進みました。目からうろこでした。

99年夏、合弁工場の開業式を無事迎えた。

現地での式は晴天に恵まれ、とても暑かった。思い起こすと青島ビールとの合弁事業は私の課長時代、最も苦しく、最も満足感が得られた仕事でした。グローバルではローカル企業との協業が最も大事だということも学べました。式では新工場で出来たての2社のビールが供され、のどを潤しました。感無量でした。

<あのころ>
 踊り場だった「スーパードライ」は早く出荷して鮮度を追求する取り組みが効き、再び成長軌道へ。98年にはビール市場で45年ぶり首位に返り咲いた。当時は全売り上げに占める海外の割合はまだまだ低く、国内での販売の勢いを追い風に将来のグローバル化を目指した。その先駆けが中国事業であった。
[日本経済新聞朝刊2017年5月30日付]

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