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アサヒビールの「スーパードライ」は発売30年を迎えた

アサヒビールの「スーパードライ」は発売30年を迎えた

アサヒビールの平野伸一社長(61)は入社8年目の1986年、将来の主力「スーパードライ」の発売直前に営業からマーケティング部に異動した。

入社当初は主力ビールが販売不振で、世間から"夕日ビール"と呼ばれていました。しかし、87年に発売したスーパードライで状況は一変。初年度に1350万箱を売り上げ、3年目には1億箱を超えたのです。自分が営業だったころとは様変わりしました。

89年、東京支社南支店の課長代理になり、2年後課長に就いた。

ひらの・しんいち 1979年(昭54年)早大教育卒、アサヒビール入社。2013年専務、15年副社長。16年から現職。兵庫県出身

ひらの・しんいち 1979年(昭54年)早大教育卒、アサヒビール入社。2013年専務、15年副社長。16年から現職。兵庫県出身

着任初日、都内でオープンしたある大手居酒屋チェーンに飲みに行きました。酒類業界では取引先の店が開店すると、初日にメーカーと酒販店が一緒にお祝いがてら飲みに行く慣習があるのです。店にはある酒販店の社長も来ていましたが、当社の上司はそっぽを向き話もしません。気まずい空気になりました。

「我々は認められていない。あいさつもなかった」。その酒販店の社長に話を聞きにいくと、当社の幹部は小さな酒販店には配慮がないと言うのです。説教は延々2時間に及びましたが、本音を聞くうちに仲良くなりました。その後、新しい上司とあいさつに行き、関係を修復できました。

営業先が多く、個人の力に限界を感じた。

東京では卸会社も業務用酒販店も、ビール大手4社の製品はいずれも扱うので、自社の味方を作らなければいけません。しかし、彼らはジョッキを持ってきてなどと便利屋扱い。当時、私が担当した業務用酒販店が取引する飲食店は2千軒にものぼり、とても対応できません。やんわり断りました。プラスになる提案をして関係を築きました。

個人の営業では限度があり、組織対組織で仕事をするようにしました。例えば、営業の後方支援を担う内勤者の女性。当時は彼女らが電話で注文を受け付けていました。でも相手の顔を知らないともめ事もしばしば。私は取引先に彼女らを連れて行きました。電話では名乗ってくれない酒販店社長も、会えば懇意になりました。電話で名前を呼ぶと喜んでくれました。

組織対組織の営業では上司がトップセールスするよう演出すれば組織がつながります。南支店時代には東京支社に足を延ばし、秘書に頼んで支社長のスケジュールを書き換え、酒販店との懇親会などに出席するように仕組みました。上司が率先垂範すれば、部下も学ぶことができるのです。

<あのころ>
 1987年発売の「スーパードライ」は、驚異的な売れ行きを示したため製品が不足。若い営業は売ることより、取引先の要望に対し製品をどれだけ確保できるかが仕事だった。ただ、3年を過ぎて需要は踊り場に。売るのに苦労した時代を経験したベテランの出番となった。
[日本経済新聞朝刊2017年5月23日付]

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