境界なき社会先取り エドワード・ヤン監督に脚光再び

「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)
「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)

エドワード・ヤン(楊徳昌)が逝って10年。1980年代に登場したアジアの新世代監督の中で随一の理知派は、21世紀のボーダーレス社会の葛藤を先取りしていた。その映画は今、輝きを増す。

「頭が切れた。物事に対してはっきりした見方をもっていて、細部まで計算できた。まるでコンピューターだと思っていた」

エドワード・ヤン(1947~2007年)

台湾ニューシネマの旗手として並び称されたホウ・シャオシェン(侯孝賢)はヤンをそう回想する。

「厳しい人だった。役に対する要求が明確だった。何度も撮り直しを重ねるが、そのたびに何がダメかはっきり言う。1から7までやることがあれば、1つ抜けてもダメだった」

「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(91年、公開中)の主演に抜てきされ、今やトップ俳優となったチャン・チェン(張震)もそう語る。

東西文化に見解

ヤンは47年に上海に生まれ、2歳で家族と台湾に渡った外省人。69年からは米国の大学で学び、コンピューターの仕事もした。映画の仕事を始めたのは台湾に戻った80年代からだ。

当時からヤンを知り、「牯嶺街少年殺人事件」の製作を手がけたユー・ウェイエン(余為彦)は「ニューシネマの監督の中で、欧米の映画に最も通じていた。一方で小津、成瀬、黒澤など東洋の映画もよく知っていた。東西両方の文化に見解をもっていた」と語る。

「彼の家でよく外国映画のビデオを見た。パゾリーニの『アポロンの地獄』や大島渚の『少年』を分析しながら、語り合った」とホウ。ホウが「風櫃(フンクイ)の少年」、ヤンが「海辺の一日」を撮った83年ごろから2人の交流が始まり、ヤンの影響はニューシネマ全体に広がった。脚本家チュウ・ティエンウェン(朱天文)は「私たちはヤンに導かれて外国映画を見ていった」と語る。

「台北ストーリー」(1985年)

ホウが主演し、他の若手監督らも出演した「台北ストーリー」(85年、5月6日公開)はその親密さから生まれた。ヤンの熱意に動かされたホウが製作をかってでて、友人や親戚から資金を工面。ヤン、ホウと共に脚本を書いたチュウは、後にヤンと結婚する主演女優ツァイ・チン(蔡琴)が「2人は恋人同士みたい」と話していたと証言する。

「それはヤンとホウが互いに自分にないものを認め合い、求め合っていたから。ホウには庶民的な雰囲気と直観がある。ヤンには緻密な計算とシーンを組み立てる方法がある。互いに補い合い、磁石のようにひかれあっていた」とチュウ。

価値観の対立描く

米国から帰ったばかりのヤンは台北という都市も客観視していた。「中にいた僕らと違って、外から見渡していた。個々の登場人物の中に当時の台北のそれぞれの社会を反映させた」とホウ。開発が進みビルが立ち並ぶ東部と、問屋街など古い街並みが残る西部。キャリア女性のツァイが東、義侠心に富むホウが西を象徴する。2人は幼なじみだが、それぞれの壁にぶつかり、心がすれ違っていく。

それはヤン作品に一貫する方法だ。映画評論家の暉峻創三は「異なる集団に属する複数の人物にそれぞれの階級や階層を代表させ、ひとつの社会の中でのぶつかりあい、価値観の対立を描く。そこにヤンの都市論がある」と指摘する。

暉峻は「他のアジアの新世代監督と違って、ヤンの作品には西洋人に心地よいオリエンタリズムや郷愁の要素がほとんどない。アジアの特殊性に関心がなく、世界に共通する社会の問題を描こうとした」と見る。

ヤンの少年時代に起きた事件に材を取る「牯嶺街」も、60年代初頭の台湾の外省人社会の不安を描きながら、寄る辺ない現代人の悲しみが浮かぶ。「当時の外省人はある意味で移民。中途半端で居心地が悪い。知らない土地だが、そこで生きなくてはならない。そこに共鳴力がある」とユー。

「インターネットもない時代に、国境を軽々と越える文明観をもっていた」と暉峻。91年に「牯嶺街」制作中の台北のスタジオを訪ねた記者にヤン自身はこう語った。「20世紀の末、メディアの発達で国境は薄れていく。人と人の距離が縮まり、関係は発展する」

優しさが漂う遺作「ヤンヤン 夏の想い出」を20世紀最後の年に残して世を去ったヤンだが、そのまなざしは今日のボーダーレス社会の深層を誰よりも早く、鋭くとらえていた。

(編集委員 古賀重樹)

[日本経済新聞夕刊2017年4月3日付]

エンタメ!連載記事一覧