「金だ金々 金々金だ♪」 伝説の演歌師・添田唖蝉坊神奈川近代文学館展示課主査、中村敦

〈金だ金々 金々金だ/泣くも金なら笑ふも金だ/愚者(ばか)が賢く見えるも金だ〉。街頭に立ち、道行く人々に向けてこんな歌を歌う男がいた。今ならさしずめストリートシンガーというところだろうが、そのころは「演歌師」と呼ばれていた。明治から大正にかけて絶大な人気を誇った演歌師、添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)(1872~1944年)。右にあげた「金々節」は彼の代表作である。

私は神奈川近代文学館の職員で、唖蝉坊の世界に魅惑されてきた一人だ。調査を進め、2013年には展覧会も手掛けた。当館には1985年に唖蝉坊に関する資料が遺族や関係者から寄贈されている。この知られざる演歌師の人生と作品世界をご紹介したい。

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18歳で壮士節に感銘

唖蝉坊、本名平吉は神奈川県大磯の農家に生まれた。幼少時代のことはほとんど知られていないが、13歳で故郷を離れ見習い水夫や土木作業などの仕事に就いたという。

転機は18歳のときに訪れた。街中で壮士節を聴いたのである。壮士節とは自由民権運動が盛んなころ、壮士が街頭演説に節をつけて歌ったものだ。平吉はいたく感銘を受け、この世界に飛び込むことになった。

横須賀で歌い始めると、抜群の歌のうまさが話題になり、東京へ。当初は政治的な主義主張を直接的に打ち出す壮士節のスタイルだったが、仲間から「もっとくだけたものを歌ったほうがいいのではないか」と助言され、エンターテインメント性豊かな作品を歌い始める。

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日露戦争後に大流行

〈倒れし戦友抱き起し耳に口あて名を呼べば/ニツコリ笑ふて目に涙 萬歳唱ふも胸の内 トコトツトヽヽ〉

この「ラッパ節」はわかりやすさと滑稽さ、そして社会を批評する視点が受け、日露戦争後に大流行した。唖蝉坊は新聞の三面記事のような内容を諧謔(かいぎゃく)と叙情をまじえた歌にした。演歌の革新者と呼ぶべき人物だったと私は考えている。

〈「空前絶後」とは「タビタビアルコト」で「スグコワレル」のが「保険付」/「正直者」は「ジセイニアハナイバカ」で「才子」は「ユダンノデキヌヒト」〉(当世字引歌)

〈地主金持は我儘(わがまま)者で 役人なんぞは威張る者/こんな浮世へ生まれてきたが わが身の不運と あきらめる〉(あきらめ節)

大正期に演歌は全盛期を迎える。バイオリンの伴奏が入り、より音楽性が豊かになった。唖蝉坊は1918年に演歌師の組合を結成。会長として歌本の出版に力を入れ、演歌師の新作発表の場となる機関誌も発行した。また警視庁に働きかけ、演歌を業として公認させた。業界のリーダーとして東奔西走したのだ。

その唖蝉坊が大正の終わりに演歌から身を引いたのは、時代の流れだったのかもしれない。大学を出たインテリが大衆的な文化の世界に入っていくようになり、演歌師は徐々にその役割を終えることになった。東京を離れて放浪生活に入り、最後は無一文になって息子・知道(ともみち)の家で亡くなった。

私は1960~70年代のフォークソングが好きで、唖蝉坊の歌を独自の解釈で広めていたシンガー・ソングライターの高田渡のファンだったので、早くからその名を知っていた。文学館に資料が所蔵されていることを知り、関心を深めた。資料のうち特に重要なものは歌本。粗末な紙に印刷されたものだが、そこには演歌師たちの心意気がこもっているように感じられる。

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展覧会で歌手が実演

それらを整理し、展覧会を開くことができた。何といっても歌なので、展示だけでなく実演が必要だ。なぎら健壱さん、土取利行さんらが生演奏で唖蝉坊の歌を歌ってくれた。観客も大盛り上がりだった。

このほど社会評論社が唖蝉坊の作品集「演歌の明治ン 大正テキヤ」を刊行した。そこに文章を寄せたが、こうした一般書の刊行を機に再評価が進めばと願っている。

彼の演歌は反体制・反骨といわれるが、それだけにとどまるものではないだろう。今の人はむしろ、そのフレーズの楽しさに目を向ければいいのではないか。柔軟な姿勢で向きあえば、いろんな魅力が引き出せると思う。

唖蝉坊に関する本格的な研究はまだこれから。私は残された資料からわかることを少しずつ考えていきたい。

(なかむら・あつし=神奈川近代文学館展示課主査)

[日本経済新聞朝刊2017年3月3日付]

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