心癒やす『船村メロディー』 船村徹さんを悼む
作曲家、弦哲也
作曲家の偉大な先輩、船村徹先生がお亡くなりになり、悲しみに暮れている。昨年11月に大衆音楽の作家として初めて文化勲章を受章され、今年1月18日に開いた受章記念パーティーでお目にかかったばかりだった。
私はパーティーの締めくくりの挨拶を任された。「船村メロディーは不滅です。これからも日本人の心に寄り添う素晴らしい作品を書いてくださるはずです」
緊張しながらそんなことを話し終えると、船村先生から声が飛んだ。「手締めをしてくれ」。私は即座に「嫌です」と申し上げた。「先生の音楽人生はこれからも続くんですから」。手締めなどしたら、本当におしまいになってしまう気がして怖かったのである。
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私は団塊世代。ラジオから流れてくる歌謡曲を夢中で聴いて育った。古賀政男、服部良一、吉田正……。偉大な先生方のメロディーが復興期の日本人の心に寄り添い、魂を癒やした。中でも春日八郎さんが歌った「別れの一本杉」をはじめ、船村メロディーの独特さは異彩を放っていた。
私が最も愛した船村作品は、船村先生と名コンビだった高野公男さんが作詞した「東京は船着場」。1962年に北島三郎さんが歌った。「どこか東京の 片隅に 夢があろうと きはきてみたが 花も咲かずに 今宵もふける……」
当時、私は歌手になる夢を抱いて千葉の銚子から上京したものの、なかなか芽が出ずに腐りかけていた。胸にじんとしみる歌だった。メロディーと歌詞がこれほどぴったり寄り添っている歌がほかにあるだろうか。
作曲家として船村先生にあって、私に足りないものといえば、骨太なメロディーであろう。さらに先生の特徴は、いつもメロディーに哀愁が伴っていたことだ。先生の人柄、人生哲学に由来するものだったと思う。
船村先生が次々とヒット曲を書かれた高度成長期、大勢の人々が地方を出て東京にやってきた。成功した人も多かったが、挫折した人も同じくらい大勢いた。先生は常に挫折した若者たちの背中を見つめて曲を書いていた。「田舎に帰っても頑張れや」と温かく励ますような歌が多かった。
船村先生は栃木県の生まれで、普段から栃木なまりを隠さなかった。「栃木なまりで曲を書く」とも公言されていた。東京一極集中に傾く世を憂い、地方にいても活躍できる時代がこなければとよく話されていた。栃木県日光市に仕事場を構え、晩年まで故郷で曲作りに励まれたのは「地方の時代」を率先垂範する意味もあっただろう。
先生の仕事場は山の中にあり、四季折々の自然の移ろいを肌で感じながら作曲された。船村メロディーが晩年まで幅を広げたゆえんだろう。
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私を船村先生に引き合わせてくださったのは、作曲家の三木たかしさんだった。三木さんは船村先生の門下生で、私の中学の先輩でもあった。船村先生からは具体的に音楽面のアドバイスをいただくというのではなかったが、先生のそばにいるだけで人生を学べる気がした。それが結局は作曲のためになった。
船村先生は数多くのヒットを放ったが、ヒットせずに終わった曲ももちろんある。「どの曲も同じように心を込め、命を吹き込んで作ったことには変わりない」が持論で、ヒットしなかった曲のために1年に1度、6月12日のご自身の誕生日に「歌供養」という会を催されていた。
私も毎回お邪魔していた。会に参加する条件は「俳句を一句詠むこと」で、先生のお姉さんが選句して「特選」「優秀賞」などが発表される。私は一度だけ「特選」になったことがある。
「紫陽花の陰でカエルは雨やどり」。梅雨のように雨が降り続く歌謡界にあって、凜(りん)として花を咲かせているアジサイが船村先生、その陰で雨やどりをしているのが私。そんな自戒の意味を込めて詠んだ一句だった。
船村先生は「演歌巡礼」と題して、ギターを抱えて全国津々浦々、小さな町の小さな会場で自作曲を歌い、講演することをライフワークにされていた。同時に刑務所の慰問も欠かさなかった。口だけでなく、行動を伴った庶民派だったからこそ、船村メロディーは大衆に愛されたのであろう。
先生は亡くなる前夜に大盛りのカレーうどんを食べたそうだ。カレーうどんを平らげて「あばよ」と去っていくなんて、やはり先生は最後まで庶民派の鏡だった。
(げん・てつや=作曲家)
[日本経済新聞朝刊2017年2月21日付]
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