在りし、在らまほしかりし三島由紀夫 高橋睦郎著晩年の記憶からつづる「聖伝」

本書に収められた最も緊張感に満ちた「死の絵」の末尾に、高橋睦郎は「聖伝的ないくつかの註(ちゅう)」を付す。本篇(ぺん)が、三島由紀夫の文学作品を、いわば「聖書」を論じるように、客観的に論じ尽くそうとしたものであるとするならば、その註では、晩年の6年間をごく近くで過ごした者にしか記すことのできない、主観的かつ私的な記憶にもとづいて、その人となりを「聖伝」としてつづる、と。本書全体に貫かれている方法を見事に説明してくれる一節である。

(平凡社・2600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

散文を選んだ年長者と、詩を選んだ年少者と。三島は高橋に向けて、書簡の中にこう記していたという。詩(および短篇)は、天上に浮かんだ完璧な「空中楼閣」である。それに比して、散文(長篇小説)は地上に建てられた、ある意味では「無様(ぶざま)な建築物」である。三島からの問いかけに、高橋は、答える。三島が、小説家として実践したのは、「散文という地上に詩という天上を成就しようとする空前の作業」であった。しかも、三島はつねに、どうしようもない「存在感の稀薄(きはく)」を抱え込んでいた。その「存在感の稀薄」を解消するために、正反対のもの、精神と肉体を、虚構と現実を、いまこの場で、無理にでも一致させる必要があった。

非常に邪悪であったからこそ、清浄に振る舞うことができ、非常に不公正であったからこそ、公正に振る舞うことができ、きわめて女性的であったからこそ、本来男性的な人よりも男性的に振る舞うことができた。だから、その作品世界では、神聖な貴種が同時に汚辱に塗(まみ)れた異類であった。高橋は、三島本人が持たざるを得なかった「虚妄の肉体」を鋭く切り取り、さらには作家と作品世界を貫く究極の主題をただ一言、「何もない無の坩堝(るつぼ)の変成力」として提示した。

「無」であるからこそ、あらゆるものを自らの内に取り込んで、自分のものに、あるいは自分以上のものに「変成」することができた。あたかも、路傍の石を黄金に変えるように。高橋は、そうした「無の生成力」を「日本」なるものに限定することを拒否する。三島を乗り越え、フィクションとしての「日本」を解体し、より根源的な「人間の原質」のリアルにまで至り着くことを希求する。その際、「無」の力を担うのは、民衆ではなく、民衆以下の、「人外(にんがい)」として社会から排除され、差別された者たちですらあるだろう。対話は対決であり、聖伝は聖書を凌駕(りょうが)する。著者にしかまとめることのできない稀有(けう)な一冊である。

(文芸評論家 安藤 礼二)

[日本経済新聞朝刊2017年2月19日付]

在りし、在らまほしかりし三島由紀夫

著者 : 高橋 睦郎
出版 : 平凡社
価格 : 2,808円 (税込み)

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