いきと風流 尼ヶ崎彬著
反転しつつ変わる生活の美学
今は生きるのが楽な時代ではないが、それでも私たちはただやみくもに生きているわけではない。時に「風流」な催しもあれば、「いき」なはからいもなお存在する。
そうした生活の美学は、日本人の歴史の中でどのような変遷を経て来たのか。本書は、美学者である著者が、本来研究対象にならなかった生活の美学を探究した画期的な一冊である。何よりの面白さは、「美学」それ自体が、さながらオセロゲームのように次々と裏返されてゆくことだ。
まず古代の「風流」は、『万葉集』の額田王と大海人皇子のやりとりのように、公衆の前で和歌や恋愛の洗練された戯れを演じることだった。だが、平安時代になると、「風流」は宮廷風という意味の「みやび」に取って代わられ、次いで現代の「俗」に対する「雅」という古典的美意識になって、貴族たちの生活全体を支配する。
そして新たに登場するのが、「すき」である。これはまず「色好み」であり、『源氏物語』の基本原理であることは言うまでもない。
この「すき」がやがて「数寄」すなわち風雅の源となって、後鳥羽院による『新古今和歌集』を支えた。
しかし、「数寄」は、中世には、佐々木道誉などの婆娑羅(ばさら)的風流の蕩尽(とうじん)を経たのち、語源の色好みとは似ても似つかない、俗世を離れた隠者が茶を楽しむ「清風」の世界に至った。
ところが、ここで、「清」でありつつ同時に「俗」であるという江戸時代の新しい境地が開けるのだ。
俳諧の松尾芭蕉は「古池や蛙飛び込む水の音」の句で、尊敬する西行の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ」の雅を俗に変換して見せた。
日本人の生活の美学は、上流階級に発して、常に「雅」が「俗」の優位にあった。
しかし、本来「俗」である町人階級から生まれ、「雅」を使命とする支配者には持つことができないという点で、革命的な「いき」の美学が登場する。
「表と裏の二重性」「不完全の美」「出ず入らず」「恥の文化」――これらの美意識は、何よりも他者の眼差(まなざ)しを鋭く意識せざるを得ない被支配者のものである。
人は他者の想像力の中でしか「いき」であることができない。「いき」とは共生の思想なのだ。
今の私たちには「いき」の美学こそふさわしいのではないだろうか。
(歌人 水原 紫苑)
[日本経済新聞朝刊2017年2月19日付]
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